〜1967年11月11日〜

普通の市民が国家を欺いた日。

普通の市民が国家を欺いた日。

初出はGENERATION TIMES vol.10(2008年3月発行)に掲載。特集テーマ『時を拓く』の中で取り上げた、戦後の市民による「反戦運動」の物語です。通称『ベ平連』と呼ばれたベトナム戦争を止めるために行われた活動は、映画さながらのミッション。たとえ市民活動であっても、多くの人たちと連帯することによる可能性を感じさせてくれます。


かつて、市民が戦争を止めようと立ち上がった『ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)』という運動があった。デモ、集会、脱走の呼びかけ、反戦広告、フォークゲリラなど創意に溢れた活動をした。その中でも特筆すべきはベ平連内の『ジャテック(反戦脱走兵援助日本技術委員会)』による米脱走兵援助だ。米兵を戦地から逃がすことで軍内部から戦争を食い止めようとする動きである。

しかし、活動が米軍に知られると、国内に脱走兵を抱え込み、出口の見えない闘いを強いられた。ベトナム反戦が世界中で繰り広げられる中、「市民革命がない」と揶揄されてきた日本でも、密かに国家と闘った市民が生まれようとしていた。

文:井上英樹 写真:佐藤暢隆(人物)


いつ始まり、いつ終わったのか。ベトナム戦争の期間は専門家でも意見が分かれる。

ベトナムでは、1954年から1975年までの21年間を「抗米救国闘争時代」と呼んでいるが、一般には1964年のトンキン湾事件(※1)以後、アメリカ軍が介入し、1973年のパリ和平協定を経て、1975年の北ベトナム軍と南解放勢力の勝利によって戦争が終わるまでの「第2次ベトナム戦争」を指す場合が多い。1960年代後半、ベトナムでは長年にわたって兵士や民間人が殺し、殺されていた。戦争が泥沼化するにつれ、反戦運動は国際的な連帯となっていった。

1960年代の日本。戦後の復興を終え、日本経済はめざましい高度成長を達成していた。東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が東京と大阪を結んだ。日本が体験した戦争は遠い過去の話ではなかったが、テレビでベトナム戦争を眺める側にいた。人々は坂本九の歌を口ずさみ、街にはビートルズが流れており、20年前とは大きく違っていた。

しかし、その平和な日本の茶の間に衝撃が届く。1965年2月の北ベトナム爆撃だ。人々の視点が爆弾を「落とす側」か「投下される側」だったのかは想像に難くない。北爆を機に市民の平和を求める声が大きくなっていく。

殺すな、殺されるな

1965年4月に高畠通敏(政治学者)、鶴見俊輔(哲学者)、小田実(作家)らが、ベ平連を結成し、党派でも組織でもない個人参加の反戦団体として抗議デモを行った。その後も討論会を重ね、アメリカの新聞へ岡本太郎の筆による「殺すな」と書かれたストレートな反戦広告を『ワシントンポスト』に掲載するなど、人々の共感を得ていった。

日米安保条約という国家間の「良い関係」があり、米兵はベトナムに6カ月間勤務すると一週間の休暇がもらえる『R & R(保養休暇制度)』を利用し、日本へやってきた。「兵隊がやめたら戦争はできない」と、ベ平連は1966年の12月に反戦の働きかけを促すビラを米兵に配る。戦地で脱走をするのは難しいが、休暇中なら逃げ出すのは容易だろうと考えたのだ。

脱走などの反戦行動を呼び掛ける英文のビラ。
横須賀、佐世保、横田などの米軍基地周辺で米兵に撒いた
(写真提供:埼玉大学共生社会研究センター)

本当に現れた脱走兵

1967年10月28日。1本の電話が東京・お茶の水駅近くのベ平連事務所にかかってきた。「え!?脱走兵?」。ベ平連事務局長・吉川勇一の声に、事務所中が息をのんだ。脱走を呼びかけはしたものの、本当に脱走兵が出てくるとは誰も思っていなかったのだ。大慌てで、ベ平連は航空母艦イントレピッド号からの脱走兵4人と接触に成功。そして、脱走の意志を確認するため4人に「声明」を書かせた。

「『共産主義』『自由』『侵略者』などの言葉をふんだんに含んでいる政府の演説も、それだけでは、無数のアメリカ人やベトナム人を殺す理由になっていません」。「そのときまで4人をなんとなくバカにしていた」と語る小田実も、若い米兵たちの反戦の決意に驚いた。

11月11日、さまざまな人の繋がりを利用して横浜港からバイカル号に乗せる。北風の寒い日だった。4名はソ連経由で、スウェーデン入国に成功する。スウェーデン政府はベトナム戦争に反対の立場をとっており、数多くの米兵が政治亡命していた。

ベ平連は記者会見で脱出前に記録した『イントレピッドの四人』を上映し、脱走兵たちの思いをメディアに伝えた。一連の事実を発表すると、驚きとともに全国からカンパや支援の声が殺到し、市民の熱烈な支持を得ることとなった。その後も脱走兵をかくまい、ベ平連は逃亡を助けるための組織『ジャテック』を使って、越境作戦を実行する。ジャテックのメンバーも普通の市民。映画を観て尾行をまくノウハウを学んだ者もいたという。

ジャテックは市民をつなぎ、ネットワーク化する……とはいうものの、生活習慣の違う米兵をかくまうことは容易ではなかった。せっかく知り合いに頼み込み、潜伏先を見つけても、戦場からの解放感から大騒ぎしたり、勝手に遊びに出かけたり、恋に落ちたりとトラブルは日常茶飯事。隠れながら潜伏先に移動するのに、緊張感がまるでない脱走兵もいた。

それもそうだ。兵士たちはみんな、ジャテックの若者と同世代。国にいればバカ騒ぎをし、恋をしていた普通の人々だったのだ。自分たちとなんら変わらない青年たちが、戦場で殺しあわなければならない不条理さとジャテックは日夜向き合った。
トラブルは多くあったが、彼らを繋ぎとめたものは「殺すな、殺されるな」という戦争からの離脱の意志だった。

だが時は冷戦下、アメリカも手をこまねいてはいない。約1年で17人の脱走兵を逃がしたところで、情報機関員を送り込まれ、北海道弟子屈で脱走兵が拘束(弟子屈事件、1968年)されると、ソ連が手を引いてしまった。ベ平連・ジャテックによる「越境作戦」は表向き、ここで幕を閉じる。

脱出ルートが閉ざされ「鎖国」状態になったにもかかわらず、脱走兵はベ平連を頼りに脱走してくる。しかし、鎖国状態になってはどうしようもない。永久に国内でかくまい続けることは不可能だった。

1968年1月21日、佐世保に入港した米原子力空母エンタープライズ号の米兵に、小舟から反戦と脱走をマイクで呼び掛ける小田実ら。撮影者不詳(写真提供:旧ベ平連運動基金)

蓄積される市民の「知恵」

鎖国状態から2年後、二人の脱走兵が羽田と伊丹空港から国外に飛び立った。市民の闘いは、まだ終わっていなかった。これは弟子屈事件後、新生ジャテックの責任者になった高橋武智が持ち帰った欧州の市民の知恵を用いた勝利だった。

「穴を開けなくてはならない」。
高橋は立教大学助教授を辞し、その思いを胸に欧州へと向かう。高橋は10歳の頃に敗戦をむかえた。敗戦からまもなく、空飛ぶ米軍航空機に向かって「バカヤロー!」と叫ぶと家族が大慌てで制止した。「飛行機に聞こえるかもしれない」という理由からだった。「まさに手のひらを返すとはこのこと。軍国主義だった大人が敗戦を期に一変した。僕は子どもをだます大人にはならないと誓った」。

「穴を開ける」ため欧州で「様々な可能性」に接触するが、決定打は出ない。高橋には2年のパリ留学経験があり、当時からレジスタンス時代からのしたたかな市民文化の厚みを感じていた。高橋はパリの街に期待していた。

ある日、パリでユダヤ人弁護士に会う。彼女に「目的達成するために、そっと目立たないようにことを運びたいのか? それとも騒ぎ立てたいのか?」と尋ねられる。「問題は目的達成。そっと目立たないようにです」と答えると、弁護士はパスポートと出入国スタンプの偽造術を学ぶ機会を作ってくれた。

偽造の専門家はいう。「完璧に作ってはいけない。あなたの国の“芸術家”にこの点を徹底的に教え込むことが大切だ」。高橋は数冊のパスポートを手に入れ、本をくりぬき日本へ送った。それまでの脱走劇は、米兵の出入国の自由が日米安保で守られており、罪に問われることはなかった。しかし、パスポート、スタンプの偽造は明らかな犯罪行為だ。

「法を犯した。しかし、国内で脱走兵を無限にはかくまいきれない。あらゆるドアをたたき、可能性を追求しようとした。脱走兵が捕まり、不名誉除隊になると選挙権がなくなり、就職もままならない二等市民になる。彼らは大きなリスクとともにいた。僕たちも脱走兵と同じ立場に身を置かないと支援はできない。運動を完結させるには、越境させなければならない。これが僕の使命だった」

手掛かりを探しに欧州に渡る時、高橋にはパスポートを含めた予感があったという。第二次世界大戦以後も、欧州や周辺では戦争や紛争が続き、自発的にものを考える市民の中には「イリーガルな活動」をする者も少なくなかった。「欧州には偽造を含め、市民の知恵の蓄積があった。経験を意識的に分類して蓄積し、必要な運動に伝達しないといけない。そう考える人たちがいたんです」。

その“市民の知恵”を用いて、二人の脱走兵を国外へ逃がすが、時代とともにやがてベ平連自体が変わっていく。兵士たちに良心的兵役拒否をするなど、基地内で反戦活動をするようにうながし、パリ和平協定(1973年)を受け1974年1月にその役割を完了した。その後、高橋は2007年に『私たちは、脱走米兵を越境させた……』を出版するまで「知恵」については沈黙を守り続けた。


大人にだまされてはいけない

高橋が語ってくれたある「凧あげの話」が印象に残る。
米軍基地の滑走路から飛行機や軍用機がベトナムに向けて飛び立つはずだった。しかし、飛行機は飛びたてない。空には小さな凧がいくつもあがっており、それが飛行の妨げになるからだった。

「少なくとも、凧をあげている間は飛行機が飛び立てなかった。あれは僕たちの行った活動の中でも極めてユニークなものだった」

凧を下ろせば爆薬や兵士を乗せた飛行機は、いつもと同じように飛び立っていく。出撃を少し遅らせただけでは、戦争は止まらない。ベトナム戦争という大きな視点から見れば、凧あげ同様、脱走行為もささやかなできごとだっただろう。しかし、行動の後ろにはたくさんの人々の思い、行動がある。世界中の市民の小さな行動の蓄積が、のちに戦争を止める一つの原因になったのは間違いない。

「終戦の知らせを聞いて、報われたと思った。世界史は、遠いところのできごとが結びつき、回りまわって結果を作る。戦争は国家が始める。そして、させられるのは市民だ。それをどう離脱するか。脱走という不服従は戦争を掘り崩す有効な手段じゃないでしょうか。国家は知恵を付けて次の戦争をする。市民も体験を総合し、知恵を蓄積し、対抗していくしかない。それが10歳から続く僕の教訓です。大人にだまされてはいけない」

参考文献

『私たちは、脱走米兵を越境させた……』(作品社)高橋武智
『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社)関谷滋、坂元良江編

  1. トンキン湾事件‥アメリカの駆逐艦が北ベトナムに攻撃されたとして、北ベトナムの基地、石油貯蔵所を爆撃。1971年にアメリカ軍による自作自演と判明