〜ベトナム戦争の面影〜

「今」を生きる

「今」を生きる 〜ベトナム戦争の面影〜

初出はGENERATION TIMES(vol.4)に掲載。日本の戦後60年を迎えた2005年の夏に、戦後30周年を迎えていたベトナムを取材したものです。ベトナム戦争は1975年4月に終戦。GT編集部と同世代の20~30代の若者たちが「戦後世代」と呼ばれる国を通して、戦後を考えるドキュメントです。


時は、2005年夏。場所は、ベトナム・サイゴン(現ホーチミン市)。空港を出て、街の中心地に向かう途中、一番最初に目に飛び込んできたのは、バイクの交通量だった。

2人乗り、3人乗りはあたり前。ヘルメットもつけず、イナゴの大群みたいに右に左に遠慮なくクラクションを鳴らしながら、上手にすり抜けていく。これだけの数のバイクがどこかに向かっている。それだけでこの国の勢いを感じた。

ベトナムは今年、終戦から数えて30歳になる。この夏、戦後60年を迎えた日本のちょうど半分だ。時代を受け継ぐ20代から30代の若者が「戦後世代」にあたるベトナム。まだ戦争の記憶がモノクロに色褪せてない若き世代の声を聞きに行った。

文・写真:伊藤剛


「チョーヨーイ」。空港の待ち合いロビーで、気だるい暑さのバス停で、一日が終わる前の屋台で、男たちは何とも気の抜けるこの言葉を発していた。腹が立った時、しくじった時、「ああ、やれやれ」と溜め息をつきたい時、ベトナム人がもらす言葉だ。

街を見渡すと、きらびやかな最先端のお店や百貨店が目につく。一方で、誰が買うのか分からない工芸品のお店やアジア特有の屋台が所狭しと並ぶ。都会の喧騒と下町の活気がみだらに混在し、激しく息づいている。

「少し前までは将来に希望や夢を持っていたけど、最近はさっぱり考えていないよ。とにかくお金を稼がなきゃ。彼女がいるけどお金がなければ結婚もできない。綺麗ごとなんて言ってられないからさ」

街で乗ったタクシーの運転手(32歳)は、「ベトナムは元気だね」という軽い投げかけに吐き出すように答えた。発展著しいここべトナムでも、格差はいたるところにある。親の事情によって孤児となったストリートチルドレンの存在もその一つ。戸籍に相当するIDを持っていない子どももいる。つまり、法律的にはこの国に存在していないということだ。普通に生きていけば仕事はおろか、教育も受けることはできない。


そんな子どもたちを雇い、希望を持って働く機会を与える場所がある。ベトナム料理のレストラン『フーンライ』。経営者は意外にも、白井尋さん(当時32歳)という日本人だった。「ベトナムで受けた恩返しみたいなものです」と謙虚に語るが、スタッフたちにはマナーを教え、休憩時間を利用して語学を教える。時に親であり、先生でもある。

「ベトナム人は基本的に楽観的ですよ。楽しく明るく暮らそうとしている。良いとか悪いとかではなく、いろいろな侵略の中で身につけた、自分自身を保ち続けるための処世術なのかもしれませんね」

居住歴8年になる彼にはたくさんの現地の友人がいる。マーケティングを専門に働くキャリアウーマンのアンもその一人。経歴に見合わず、一見おっとりとした笑顔で挨拶をする彼女は、戦後生まれの28歳(当時)だった。

「私が10歳くらいまでは、配給制度で物資を与えられていました。配給所に必死に並んだのを覚えています。90年代の初めには、ラジオから『ドイモイ政策(※1)』という言葉がしきりに流れていました。それと、日本のホンダのカブを“dream”という名で売り出したのも印象的ですね」

戦後生まれのキャリアウーマンとして働くアンさん


今では、みんながバイクに乗っている。それはまさに「dream」を夢見たところから始まった。その昔、日本がアメリカに憧れ、一つずつその製品を手に入れていったように、この国の人たちも外国製品に憧れ、手に入れていった。

「今は戦争のことを考えることはないです。弟は15歳ですが、若い人たちはさらに違う価値観で生きている。体格も大きくなってきたし、戦争のことなんてほとんど知らない。まだ私の世代は母親に聞かされてきたけど、弟には言わなくなりました。昔に比べると、家族と過ごす時間が少なくなってきたからかな。私の今一番の悩みは、これから先自分の能力をどうやって活かしていくかですね」

ようやく手に入れた一個人としての生活。海外では「ベトナム戦争」だけが記憶に新しいけれど、ここベトナムはフランスの植民地として80年近くの時を過ごしている。さらにその前は、中国に1000年にも及ぶ侵略を受けた。一つの国として独立したのは、本当に最近のことなのだ。国や政治に振り回されず、自分で選び択っていく人生。それは、戦後の日本人がずっと抱き続けてきたもので、今もなお必死に追い求めていることで、この場所がどこであるのか一瞬忘れそうになった。


サイゴンからローカルバスに揺られること二時間。メコンデルタと呼ばれる壮大な穀倉地帯の入り口に、ミトーという街がある。メコン川が悠然と流れ、いくつもの島が浮かび、古びた船が日に何度も行き交う。そして川沿いには国営の大きなホテル。そこで受付をしていたのがトーイという女性だった。

チェックインするなり「日本はアメリカに原爆を落とされたんでしょ?」と彼女は唐突に話しかけてきた。それから「アメリカは嫌い」とはっきりと口にした。彼女は、現在のベトナム国家が樹立した年に生まれた29歳(当時)。

「あなたが羨ましい。こうやって海外に行くことができて。私も行ってみたい。でも国営の決まった給料では海外に行くことなんてできない。この国には政治が一つしかないから、民主化してもっと選択肢が増えないと何も変わらない。発展したと言われているけど、格差はなくならない。日本は民主主義だからきっと平等なんでしょうね」

海外について好奇心旺盛に質問をする受付のトーイ


正面きって社会主義を否定し、日本が羨ましいと語る彼女に返す言葉もない。経済発展してきたとは言え、海外旅行ができる国民なんて世界でもほんの一握りなのだ。そんな一部の国の旅行者だけが、訪れた国の日常を非日常的な出来事として楽しむ。素朴な生活や風景が変わらないことを、心のどこかで願っている。

ここベトナムも、今では観光業が国の大きな産業の柱。戦争の痕跡を残す観光名所がいくつも用意されている。サイゴン市内にある『戦争証拠博物館』『旧大統領官邸』。そして近郊には、半日ツアーで有名な『クチトンネル(※2)』。そこのスタッフたちは、エンターテインメント溢れる話術で、展示されたトラップの仕掛けを説明し、射撃場では本物の銃弾を使って観光客が興味津々とトリガーを弾く。その銃声が雨期の曇り空にけたたましく、不規則に響き渡る。整然と置かれた戦車の前では、揃って記念撮影。戦争の感触はどこまでも希薄で、けれど、それが不幸なことなのかは分からない。「自分自身を保ち続けるための処世術」。尋さんの言葉を思い出す。


ベトナムを去る日の夜、再び尋さんから誘いがあった。大学で講師をしている人たちを紹介してくれるという。一人は日本語学科で、もう一人は社会学の講師。ともに戦後世代のインテリだ。流暢な日本語で、この滞在で感じていた解決しない違和感に答えてくれた。

「私たちは何よりも“安定”を求めている。いい加減長いこと争いをしてきたし、侵略されてきた。もう懲り懲りです。だからみんながその安定を強く願っていれば、後は個人個人でいいと思っています。最近は国の汚職も新聞などで載せられるようになったし、私たちが関心を持てばきっと変わる。ベトナムには54もの民族がいるから、もし民主化しても思いを統一することはとても難しいと思う。政治はいい政治家に任せて、私たちは自分の暮らしを頑張る。今は理想的な社会主義への途中だと、私たちは信じているから」


この国に来て感じていた違和感。それは、きっと「戦争の痕跡」を見出せないことに対してではなく、知識でしか知らないかつての日本が見え隠れしていたからかもしれない。バイクという製品に自分たちの夢を重ね、美しい伝統衣装のアオザイが日常から姿を消そうとしている。文化として大切にしてきた「家族」という単位が少しずつ壊れかけている。無責任な一旅行者として、大切な何かを失ってしまう気配が寂しくもあり、自分たちが失ってきた過程を見るようで、身勝手にも切なさを感じていたのかもしれない。

日本と同じように戦後60年という時間が経った頃、ベトナムはどうなっているだろうか。時の流れの中では、どの国も今よりの発展を目指し、何かを失くしていく。きっとそれは止められない。それでもこの国の人たちは、ようやく手に入れた平和を享受し、未来を信じて、「今」を生きている。

「チョーヨーイ」。街では人々が今日もその言葉をつぶやいている。何とも気の抜ける言葉だけれど、きっとそれも処世術なのだ。そんな気がした。

  1. ドイモイ政策:1986年の第6回共産党大会に、大きな経済成長を目指す国へと転身すべく、「市場経済の導入」「対外開放」を方針とした政策
  2. クチトンネル:サイゴンの中心部から北西へ約70km。この地域には解放戦線の拠点が置かれ、アメリカ軍は空爆と大量の枯葉剤を投下し、解放勢力は総距離約250kmにも及ぶ手掘りの地下トンネルを作り激しく抵抗した