〜1944年3月1日〜
史上最大の偽造事件に関わった日。
初出はGENERATION TIMES vol.10(2008年3月発行)に掲載。特集テーマ『時を拓く』の中で、「海外の戦争体験者」として取り上げたアウシュビッツ収容所の生存者、アドルフ・ブルガーさんの記事です。ブルガーさんは、映画『ヒトラーの偽札』のモデルとなった方で、映画公開に合わせて来日された際に取材しました。当時の年齢は90歳。凛と前を見据える姿からはその年齢を感じさせず、何よりも「生きているうちに歴史を伝えたい」という意志を強く感じました。
「囚人番号64401」
終戦から60年以上が過ぎた今でも、はっきりとその番号は腕に刻まれている。戦時中ナチス・ドイツに囚われ、アウシュビッツを始めとした強制収容所で約3年間、囚人生活を送ったアドルフ・ブルガー、90歳(当時)。しかし彼は、ただ収容されていただけではなく、国家規模としては史上最大の贋札偽造プロジェクト『ベルンハルト作戦』に協力させられた人物。彼の回顧録を元にした映画『ヒトラーの贋札』が公開され、日本語訳書も発売された。この作戦から生存した囚人は、今ではほとんどが亡くなり、彼は数少ない証言者となった。
歴史は図らずも埋もれていくが、彼の人生の中には、紛れもない事実として存在している。
取材:伊藤剛・吉村未来 文:吉村未来 写真:谷口巧(人物)
写真提供(アウシュヴィッツ):山本耕二
「アドルフ・フルガーはどこだ!」。
叫び声とともに、ナチス親衛隊員が部屋へと入ってきた。時計の針は9時半を指している。ブルガーさんはいつものように印刷所で仕事をしていた。無理やり腕を掴んで外へと引きずり出され、荷造りのため自宅まで連行された。家にいるはずの妻は見当たらない。その理由を考える余裕もなく、急がされるがまま「政治犯」として逮捕された。
尋問後、いったんは国内の収容所に入れられたが、ほどなくして『アウシュビッツ強制収容所』へと送られることになる。1942年8月11日。この逮捕された日は、25歳になる誕生日の前日だった。
第一次大戦中の1917年8月12日、ブルガーはスロバキアに生まれた。ユダヤ人の両親を持ったが、終戦2年後には父親を亡くし、家族のため14歳の時から印刷工として働く。当時のヨーロッパは不安定な時代だった。スロバキアは『チェコスロバキア共和国』として独立したものの、人民党はドイツを模範とし、ヒトラーが国家元首になった1934年からは劇的に変わり始める。
決定的だったのは、ナチスが制定したユダヤ人迫害法『ニュルンベルク法』(※1)を受け入れたこと。スロバキア・ユダヤ人の『アウシュビッツ強制収容所』への移送が始まり、最初の移送列車には16歳から25歳までのユダヤ人女性約千人が乗せられた。初めに女性が送られたのは、子孫繁栄を妨げるためである。ユダヤ人の国外排除計画が本格的に始まった。
印刷工だったブルガーは、この時期反政府活動組織に関わる友人からある依頼を頻繁に受けるようになる。『カトリック洗礼証明書』の偽造。カトリックの洗礼は、「アーリア人となる」ことを意味していたため、ユダヤ人迫害の対象とはならない。この証明書は、ユダヤ人が強制送還を免れるための数少ない手段のひとつだった。印刷工としての人助けだと思って手伝い始めたことだったが、その活動は秘密警察に目をつけられてしまい、彼の人生にとっては、悲劇の幕開けとなった。
アウシュビッツ強制収容所
アウシュビッツの入り口には、『働けば自由になる』という看板がかかっている。つまり、「働けなくなれば殺される」ということだ。収容所内では「労働力になるか、ならないか」という〈選別〉が常に行われていた。囚人たちは餓死寸前で力を振り絞って働く。彼もまた、10時間の重労働を強いられていた。1日の食事はたった300グラムのパンだけ。一時は体重35キロほどになり、生死をさまよった。しかし、ガス室送りになる直前に他の部隊へ潜り込むなど、決死の覚悟で危機を逃れてきた。
その原動力となったのは、妻・ギゼラの存在。あの日、自宅にいなかった彼女もまた同じように収容所へと移送されていた。移送途中の列車で言葉を交わすことはできたが、ここでは男女が完全に隔離される。女性はアウシュビッツ第2収容所である『ビルケナウ収容所』。妻のその後の安否は何も分からない。ただ別れ際に妻がささやいた「毎晩8時になったら私のことを思ってね」という言葉だけを胸に生きていた。
やがて彼も、ビルケナウへ移送される。ここはアウシュビッツよりも環境はひどく、「抹殺収容所」とも呼ばれた収容所だ。毎日、数千人が即刻ガス室送りとなっていた。そこで遺品をより分ける「整理作業班」として働くことになった彼は、女性囚人に近づくチャンスを得る。親衛隊員にバレないようにすかさず妻のことを尋ねた。しかし彼女の答えは、望んだものではなかった。
「ギゼラがビルケナウに来た時、2人の妹も一緒だったの。でも、すぐにガス室に送られた。それもギゼラの目の前で。彼女はどんどんやつれて、最後には働けなくなった。12月の日曜日のことだったかしら、彼女は懸命に頬をこすって赤みを出そうとしたけれど、〈選別〉の時に『ガス室行き』が決まったの」
やつれて働けなくなった妻は、クリスマス一週間前の寒い日曜日、ガス室へ送られていた。まだ若く美しい22歳だった。
初めて呼ばれた名前
1944年3月1日、地獄のような日々に思わぬ転機が訪れる。その日、疲弊して足を引きずるように歩いていた彼の耳に、呼び出しを指示するスピーカーから「自分の囚人番号」が響いてきた。
「呼ばれた時は、これから私に何が起きるのかと不安でたまらなかった。でも、所長はいつもと全く違う調子で“あなたはブルガーさんですか?”と私に敬語を使ったんです。番号以外の名前で呼ばれることは初めてでした。そして“あなたのような専門職を必要としています。これからベルリンで自由に仕事をして生きていくことができます”と言われました」
具体的な業務内容は告げられず、ベルリン郊外にある『ザクセンハウゼン収容所』へ送られた。それが「贋札作りに加担しろ」という命令だと分かったのは収容後のことだ。贋造工場は、収容所内でさらにもう一重の鉄条網で囲まれ、窓は真っ白に塗られている。建物内の様子は一切窺い知ることができない。
その密閉された空間の中で、彼は贋札作りに協力させられることになる。『ベルンハルト作戦』だ。贋造工場の囚人には、計画を滞りなく進めるために格別の待遇が与えられた。清潔でふかふかのベッド、十分な食事、そして多少の娯楽も許される。たまには、監視員たちと一緒に卓球をしたり、ショーを楽しむ時間さえもあった。
すぐ隣りの棟では、かつての彼のように過酷な日々を送る囚人たちが収容されている。彼らは待遇された生活を送る負い目や、ナチスの活動に協力することの葛藤とも常に戦っていた。姿は見えずとも時折響いてくる悲鳴が、余計に想像力を駆り立て胸を締めつける。しかし、良心の呵責に悩まされている暇さえもなかった。
「工場での日々は、束の間のバカンスだと思いました。でもそれは“死人の休暇”です。この秘密を知った以上、絶対に生きて帰ることはできないのですから。他の囚人より自由はありましたが、私が選択できるのは2つしかありません。命令に反してただちに射殺されるか、命令どおり印刷を続けるか」
当然、贋札が完成したら一斉に殺される。つまり、どの道を選んでも死は間違いない。最終的に贋ポンド札は、市場に出回っていたポンド紙幣の約10%にも上る「1億3461万810ポンド」も作られ、ナチスへ大きく貢献することになった。
サボタージュの果てに
1944年秋、「米ドル紙幣」偽造の命令が出される。しかしその年の終わり頃には、工場の囚人たちは秘かにドイツの敗戦を確信し始めていた。監視員たちが賑やかなショーを楽しんでいる隙に、彼らはこっそり外国のラジオ放送を聴いていたのだ。
そこで囚人たちは、贋ドル札の完成を少しでも遅らせるためにサボタージュ(※2)を決行し、ナチスの早期敗戦を願った。ブルガーの担当する印刷業務は、贋札作りの最終段階であるため、完成度を調整することができる。印刷主任のアブラハム・ヤコブソンは、悪質なゼラチンを使い、約4カ月の間、200回以上の試作品を意図的に失敗させた。このサボタージュは2人だけの秘密として続けられた。
そんななか、しびれを切らしたナチスから「4週間以内にドル紙幣印刷の準備を終えること。もしもこの予定が守られないようであれば、このプロジェクトに参加している囚人は全員射殺する!」との命令が下された。もう時間稼ぎはできない。250回目の試作品で、贋ドル札は完成してしまう。
一方、その頃には連合国軍からの空襲を受け、収容所にも爆撃音がこだまするようになっていた。1945年3月13日、ついに「作業停止命令」が出される。贋札製造の続行か、秘密保持のために殺されるか。
3日前。ドイツの同盟国であった日本では、アメリカ軍のB29による東京大空襲を受けていた。第二次世界大戦は、すでに連合国軍の勝利が決定的となっている時期だった。4月27日には、ソ連軍によってベルリンが完全に包囲され、4月30日には、ヒトラーが自殺を遂げる。
5月5日。移送先の山小屋で、彼は朝を迎えていた。「外に出ろ!」と、親衛隊員が突然ドアを開け、外には6人の隊員がマシンガンを構えて立っている。贋札作戦の秘密を知るブルガーを含めた118人の囚人たちは、収容所へと行進を始めた。
「ついに殺されるのか?」。
彼らの頭をよぎる。しかし驚いたことに、門の前には政治囚人が待ち構えていた。その収容所は、囚人たちが支配下に置いていたのだ。彼らは、急いで収容所の中に駆け込み、反対の端まで走った。皮肉なことに、今では収容所が安全な場所。1945年5月5日午前11時、彼らが生き延びた瞬間だった。
結局、贋ドル札の本格的な生産が行われることはなかった。サボタージュによる4カ月の引き伸ばしは、結果的に彼らの生存に大きな影響を与えたのかもしれない。
収容所で虐殺されたユダヤ人は、およそ600万人にも及ぶと言われている。史上空前の大虐殺も、戦後30年ほど経った頃には、ナチズムを信仰する人々によって「アウシュビッツは嘘である」との主張が始まった。ブルガーは解放後ずっと沈黙を守り、新しい家族と普通の穏やかな生活をしてきたが、これを機に「真実を語らなければ」と決意する。それから現在に至るまで、ドイツの若者たちに体験談を語り続けてきた。その数、8万5千人以上。彼は著書でこう述べている。
「強制収容所で命を失った人についての完全なリストなど、絶対に作ることはできないだろう。名もなき死者が求めているのは統計ではなく、リストでもない。復讐すら、彼らには意味をなさない。墓なき死者たちが告げるのは将来に向けての警告、“もう二度と起こしてはならない”という警告だけなのだ」
参考資料
映画『ヒトラーの贋札』
書籍『ヒトラーの贋札 悪魔の工房』(朝日新聞社)アドルフ・ブルガー著、熊河浩訳
『ヒトラー・マネー』(講談社)ローレンス・マルキン著、徳川家広訳