〜ブラジル移民の話〜

うつりすむ

うつりすむ 〜ブラジル移民の話〜

沖縄で発行されていた雑誌『momoto』の連載企画「67億人の交差点」で執筆したもの。テーマは、「日本人の移民」です。

やがて日本の人口は八千万人になるという。必然的に「ガイコクジン」が移住してくる時代。国民が抱える不安を代弁するかのように、ニュースで流れる「デカセギ」の呼称には、どこか侮蔑のニュアンスが混じっている。島国特有の村社会的な気質か。けれど、この日本から遠く異国の地へデカセギに行った歴史が語られることはない。この国にもまた教科書には載ることのない「移民の歴史」がある。

文:伊藤剛/写真:竹内祐二


広大なアマゾン川河口の小さな町・トメアス。80年前、日本人が移り住みゼロから作り上げた町だ。人口約6万人。海外輸出されている『アサイー』のジュースは日本国内でも人気を博し、独自の森林農業は世界中の環境専門家から注目されている。けれど、その道のりは決してやさしくはなかった。

「入植してからしばらくの間は、ずっと苦労の連続でした。医療施設はないから、野に咲く薬草で治したりしていたものです」

第一回移民団の人々にとって、トメアスはまったくの未開の地だった。木を一本一本切り倒し、耕作地を開拓するところから始まった。政府が宣伝した「楽園」とはほど遠く、医者もいない中、マラリアの大流行により次々と死者が出た。両親を亡くした子供もいる。町を離れる者は後を絶たなかったが、他の都市へと移動できた者は、資金があって年寄りや乳飲み子がいなかった移民たちということ。それすら適わなかった者が、この過酷な地に残ったのである。移住者を斡旋し、現地の受け入れをしていた日本の会社も、経営的な判断から撤退を余儀なくされ、移住者だけが取り残された。

歴史はさらに追い打ちをかけていく。太平洋戦争の勃発。突如、ブラジルは敵地となり、彼らはみな捕虜同然となった。移住者たちは「いつか日本政府が助けに来てくれる」と信じ、国交断絶により隔離された小さな町で、ひっそりと暮らし続けることになったのである。

そして、1945年8月15日。日本人にとって「敗戦」の瞬間となった玉音放送は、彼ら移民にとっては「棄民」となった瞬間だった。

戦後、移民団が再び海を渡るまでには、長い時間を要した。戦前の政府にとって、「移民政策」は「領土侵略」と同じ秤にかけられていた。アマゾンと並行して進められていた政策がまさに“満州”だったのである。次第に満州へと舵を切った日本は、やがて戦争へ突入してしまった。敗戦国となった日本が国際的な信用を得るのは、決して容易なことではなかったのである。

1953年。ようやく戦後の移民団が結成された時、国交断絶から十年以上もの月日が流れていたトメアスは、変貌を遂げていた。入植以来初の好景気。後に伝説となる『ピメンタ(胡椒)景気』で活気に満ち溢れていた。誰も訪れることのない場所で、大切に育んでいた二本の苗木。それが大当たりした。最盛期にはブラジル国内の40%を占め、ブラジル政府の許可を得て海外にも輸出。ピメンタの小さな黒い一粒が「黒ダイヤ」と呼ばれたことにも、当時の勢いが表れている。

戦前の移住者数、352家族・2104名。内、残った者はわずか二割。そんな絶望の連続だった“戦前”移民と、成功の後に訪れてきた“戦後”移民の境遇の違いに、溝が生まれてもおかしくはない。ところが、「戦前あっての戦後。戦後あっての戦前です」と移住者は口を揃えて語る。

確かに、一時は人口が百人を切ったこともある。新しい入植者が来なければ、いずれは“近親婚”の可能性もあった。けれど、彼らはそれ以上に大事な意義を肌身で知っている。

「いろんな人が移住してきているので、それぞれに得意分野がある。何かあっても、生活の知恵を教えてくれる人が必ず誰かいます」

知識や技術も、人も町も、移動し交流することでしか発展しない。彼らはそれを知っているのだ。

「よう、来たなぁ。よう、来たなぁ」。この町のすべてを知る百歳近くの長老は、寝たきりの姿に微笑みを浮かべながら、何度も何度も同じ言葉を口にしていた。故郷を離れ、長い航海を終え、未開の地に初めて足を踏み入れた時の風景は、きっと今もまだ、色褪せていないに違いない。


灯りひとつない闇夜のアマゾン川。ゆっくりとゆっくりと、時間をかけて上流へと向かう一隻の船。左右には南国特有の森が広がり、眼前には白い霧がうっすらとかかっている。やがて闇夜も終わりを告げ、朝もやを抜けると、遠くの小さな波止場の上では、今か今かと待ちわびた人たちが嬉しそうに手を振っている。ゆっくりとゆっくりと、時間をかけて上流へと向かう一隻の船。頭上の帽子を右手にしっかりと握りしめ、向こうからも見えるようにと、大きく、そして思いっきり、手を振った。