Welcome to
Japanese Amazon.

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初出は、『UR STYLE!?』(2008年春号)に掲載。「人は、ふれあって育つ」をコンセプトにしたUR都市機構のフリーマガジンで、世界のコミュニティ事例を特集しました。「移民の歴史」そのものにフォーカスしたGENERATION TIMEの記事に比べ、本記事は「まちづくり」や「コミュニティづくり」に焦点をあてています。


緑深い原生林が広がるブラジルの北部アマゾン。その流域に『トメアス』と呼ばれる小さな村がある。何もなかった広大な大地を少しずつ開拓して農地を作り、今やこの村産の作物が世界中に輸出されている。日本でも果物の『アサイー』のジュースが人気だ。

また、多種類の野菜や果物を混植し、自然環境を壊さず持続的に農業を続ける『アグロフォレストリー(森林農業)』という新たな試みが、世界中の環境専門家からも注目を集めている。

この小さな村を開拓したのは、80年ほど前に訪れた日本人の移民たち。過酷な開拓の歴史の中で、他人を寛容に受け入れながら町を育んできた。日本から最も遠い地球の裏側にある村には、私たちが忘れつつある「日本人の心」が、今もまだしっかりと根付いている。

企画編集:伊藤剛 取材・文:吉村未来 写真:竹内裕二


今の時代なら、誰一人知り合いのいない場所へ引っ越しても、普通に生活する分には特に苦労することもない。でも、病気や災害のことを考えると少し不安になる。何かあった時、近くに頼れる人がいたら心強い。

外国へ移住するというのは、究極の“お引っ越し”だ。2008年は、日本人が初めてブラジルに移住してから100年になる。生まれた場所を離れ、親しい人たちに別れを告げて、言葉も文化も風土も、何もかも違う場所で生きる決意をした人たち。日本から一番遠い地球の裏側で、彼らはたくましく、大らかに暮らしていた。

『トメアス総合農業協同組合』の危機を支えた移民2世たち(左から、伊藤ジョージさん、小長野道則さん、高木誠也さん、坂口渡さん)

ブラジル移民として、最初に渡ったのは大都市サンパウロだった。その後も、続々と移住者を募ったが、それはあくまで「労働移住者」としてがほとんど。それから二十年後、今度は政府同士の取り決めにより、広大なブラジルの土地を開拓し「農園主」として移住する人材の募集を開始する。場所は、アマゾン。“移民”が始まったのは、世界恐慌が起こった1929年だった。当時は、ブラジルまで船で52日間という途方もない日数。異国の地に居を構え、出身も家族構成も違う見知らぬ人々と共に暮らすことに不安もあっただろう。しかし、「開拓移民」という使命を担い、不安と同時に夢や希望を抱いた家族たちが次々とこの地にやってきて、原生林が畑になり、住居となり、今では立派な町となった。

とはいえ、原生林を一から開拓し農業で成功するためには、想像を絶する苦労が伴う。日本とはまったく違う土壌で、もちろん気候も違う。何ヶ月もかけて木を切り倒し農地をようやく作っても、永年作物として育てる予定だったカカオはうまく育たず、さらにはマラリアで多くの人が命を落とした。耐えかねて日本に戻る家族や、すでに発展したサンパウロなどの都市へ移って行く者が後を絶たず、一時は移住者の80%近くがこの地を去って行ったという。それでも諦めず、とにかくここで生き抜くために手を取り合った人々によって、ここトメアスは作り上げられた。

原生林が生い茂る場所は、約80年かけて町となった。この十字路は町の中心となっている


第1回目の移民からおよそ80年近くの月日が流れているが、今でもここに暮らしている住民がいる。村で唯一、初めに居を構えた場所から一度も動かなかった山田さん一家。家族構成4名で渡ってきた。当時2歳だった山田家の長男・元さん(80歳)は言う。

「父には“一度決めたからには、石にかじりついてでもここを離れちゃいかん”と言われ続けていました。ブラジルに骨を埋めるつもりでいろ、と」

現在は、元さんを始めブラジル国籍にした人がほとんどだが、移住した当初は数年したら日本に戻れるものだと思っていたという。しかし、母国日本の敗戦という歴史の悲劇が、彼らに「帰国」という選択肢を失わせた。だからこそ、子供を抱える親の覚悟は相当なものだったに違いない。1979年に制作されたテレビドラマ『アマゾンの歌』の主人公のモデルにもなった元さんのお父さんは、人一倍職人気質で、覚悟を決めている人だった。けれど、彼はトメアスを出て行く親友にも「気が変わったらいつでも戻ってこいよ。わしはいつまでもここにおるけぇ」と優しく言葉をかける。

苦しい場所だからこそ、誰かを排除することなく、助け合わずにはいられないのだろう。熊本県の貧しい農家に生まれ、1930年に一家で移住して来た澤田哲さん(88歳)は、移住して7年後、母をマラリアで亡くし、その半年後に父も後を追うように亡くなった。当時、哲さんは17歳。残された兄弟5名だけで、農地開拓を進めた。

1930年(第2回移民・追加)に渡航した澤田さん一家


「助け合わなくては生きていけなかった。でも、たくさんの人に本当の子供のように可愛がってもらいました。だから私は本当に幸福な人間だと思っています。ここに来ている人はみんないつしか家族のようになっていて、冠婚葬祭も村のみんなでやっていました」

両親が亡くなった時、「親がこの地に眠っている以上、絶対に離れない」と哲さんは誓った。88歳になった今でも無事にここに暮らせているというその事実が、家族以外の温かさに包まれた場所であったことを意味している。哲さんの願いは「この町が栄えること」。ただそれだけだ。

世代を越えたふれ合いが、文化を守る。

移住当初は、何とか農業を成功させることに精一杯だった彼らだが、やがて農業組合を結成し、商店を開き、祭りやスポーツなどの娯楽行事を作ることで、絆をより深めるようになった。

取材時も、ちょうど村全体の『忘年ゲートボール大会』が行われていた。普段は、野球やゴルフもやるが、忘年会は誰もができるゲートボール。会場には老若男女問わず100人近くが集まっていた。試合で戦う父や祖父のために点数ボードを書き込む青年たち、食事を持ち寄って応援する主婦たち。テーブルには、白菜の浅漬け、おこわのおにぎり、まんじゅう、ドラ焼きなど、昔ながらの日本の味が揃っている。そして、今の日本ではなかなか見ることのできない、大きな風呂敷に包まれたお弁当箱が並ぶ懐かしい風景もあった。

おばちゃんたちは挨拶をするたびに「これ食べていきなさい」と食べ物や飲み物を次々と差し出してくれる。そして、ある一人に「いつブラジルに?」と質問すると、「私は戦後に来て45年」とか「私は70年もいるのよ」と、周りにいた人も競うように教えてくれた。子供たちは目が合うと必ずニコッと笑う。誰もが人懐っこく歩み寄ってきた。今の日本では失われつつあるものが、この場所では静かに守り続けられている。6年間日本で暮らしたことがあるという二世の鈴木モニカさん(35歳)は、日本に永住したいとは思わなかったという。

「早くトメアスに帰りたいって思っていました。ここではいつでも家族みんなで過ごしていたから」

村をあげての『忘年ゲートボール大会』を楽しむ鈴木モニカさんの家族


この地で生まれ育った二世や三世は、両親は日本人でもポルトガル語の方が得意になり、自分の居場所はブラジルだと認識している。それでも、誰もが「日本人であることに誇りを持っている」と語っていた。二世の伊藤ジョージさん(52歳)は、「自分たち二世はブラジル教育を受けているから、一世よりもラテン的な気楽さがある。“二世はルーズだ”と親たちに今でも怒られます(笑)。ブラジル人には“お前らは日本人だ”と言われ、日本へ行くと“ブラジル人”と言われ続けてきた。でも、やっぱり精神は日本人です。トメアスなりの日本文化を守り続けて、三世に受け継ぎたいと思っています」と語る。

家族や世代の枠を越えてふれ合うことが当たり前のトメアスでは、80年前の日本の心が自然と受け継がれている。

〝よそ者〞が存在しない町

43家族、189名から始まったこの村も、今では人口約6万人となり、日本人が作った農村とは思えないほどに、たくさんのブラジル人が暮らすようにもなった。一方では、若い人たちが都会へ出て行き、“後継者問題”という日本の地方と同じような悩みもある。けれど、一時は存続の危機にあった農業組合の経営を引き継いだ二世たちの努力と、「外へ出た若い人たちにも、ここに帰ったら安心して暮らしていけると思ってもらいたい」という願いが実り、農業以外の仕事を少しずつ増やし、最近では都会へ出てもまたここに戻ってくる若者が着実に増えている。開拓を成し遂げた親たちの物語を知っている彼らには、きっと「町は自分たちの力で作るもの」という精神が受け継がれているに違いない。

そんな小さなコミュニティのあり方は、一見、日本の「田舎町」と同じような形態に見える。しかし、古くから地元に根づいた人がほとんどの町とは違って、ここは人の出入りが激しい場所だ。“戦後移民”が開始されたのが1953年。戦前に移住した人たちと戦後に来た人では、最初の苦労もずいぶん違う。普通であれば、二つの派閥に分かれても不思議ではない。けれど、澤田さんは当時を振り返ってこう語る。

「私は“戦前あっての戦後。戦後あっての戦前”だと思っています。私たちは新しい移民が来てくれることを、ずっと期待していました」

トメアスに来る移民船が最初に到着した船着場


確かに、最初の人たちが土台を作らなければこの町は生まれなかったし、戦後に新たな移住者が増えなければ町は発展しなかった。戦前、一時は人口が100人を切ったこともある。人の営みこそが町を発展させ、暮らしを楽しくする。そんなあたり前のことを知っているからこそ、新たな人が入ってくることを決して拒んだりはしないのだろう。それは、ブラジル人に対しても同じ気持ちだ。二世の伊藤さんは言う。

「ここには“村社会”みたいなものがない。噂話をしたり、他人と比べることが少ないんです。この前ふと思ったんですけど、ここならみんな知り合いで、ブラジル人の店でも日本人は信用があるから、ツケで買い物しても半年はお金を払わなくても生きていけるなって(笑)。冗談みたいですけど、それくらい親しみがあるし、今まで助け合ってきましたから、そういう信頼感はあります。いろんな人が移住してきているので、それぞれに得意分野があって、“何かあればあの人に聞けばいい”っていうのがすぐ浮かびます。近所の家に行けば生活の知恵を教えてくれる人が必ずいる」

様々な人が往来する中で、居住年数や年齢などで人を判断しない精神が自然と養われている。だからこそ、誰もがみんな町を形成する一人となり、それぞれの想いが重なり合って、苦楽をともにする人々が家族のように団結して暮らすことができるのかもしれない。


トメアス滞在の最終日、この村最年長の林熊男さん(97歳)と会うことができた。彼は私たちを見るなり、孫を迎えるように微笑み、何度も何度も同じ言葉を口にした。「よう、来たなぁ。よう、来たなぁ」と。

ここには“よそ者”が存在しない。訪れた人みんなが、いるべき人になる。

トメアス最年長の林熊男さん