〜1946年11月3日〜
この国に新しい憲法が生まれた日。
初出はGENERATION TIMES vol.10(2008年3月発行)に掲載。特集テーマ『時を拓く』の中で、日本国憲法の草案づくりに実際に関わられたベアテ・シロタ・ゴードンさんに直接お会いする機会を得たことから、この取材がはじまりました。
今から80年ほど前、この国に新しい憲法が生まれた。日本国憲法。
ここに記されたものを土台に、戦後の日本は作られた。しかし、「“押しつけられたもの”ではなく自立したものを…」と憲法改正を主張する人たちがいる。
2007年には、憲法改正の具体的な手続きを定めた『国民投票法』もでき、憲法『9条』を中心に改憲論議が盛んになってきた。
日本国憲法の誕生秘話。焼け跡から生まれたその物語から見えてくるものは、世界中の人類が長い間願ってきた「祈り」そのものである。
文:伊藤剛
写真提供(日本の戦後):『GHQカメラマンが撮った戦後ニッポン』(アーカイブ出版)
写真協力(ベアテさん):渡辺真也(アトミック・サンシャイン-九条と日本実行委員会)
1946年11月3日午前11時、暖かい薄日差す秋晴れ。『日本国憲法』が公布された。午後の皇居前広場では、東京都主催による記念祝賀会が行われ、一般参加者は10万人。
「ソフトにモーニング服の天皇陛下が(中略)正面マイクの前に立たせられた時、参会者はつひに総立ちとなって式台に殺到。そのもみくちゃとなった会場から万歳がわき起こる。(中略)大会が終わって潮のような人波のなかに両陛下をのせた御馬車がすっぽりと呑みこまれ、広場を大きく廻りながら二重橋へと押し流されていった」
翌日の朝日新聞にはその様子が一面に大きく掲載され、写真には〈祝賀大会の都民に埋まった陛下〉の説明とともに、膨大な大衆の中に埋もれた天皇をわざわざ○印で囲んでいる。かつて神と崇め、顔を直視することさえ叶わなかった天皇は、すでに「国民の象徴」となっていた。まさに一つの時代の終わりを“象徴”する、新しい時代の始まりだった。
しかし後年、この憲法は論争を巻き起こすことになる。日本政府が作ったと思われていた憲法が、実は占領統治していたGHQによる草案だったと発覚したからだ。これが「押しつけ論」として、現在も憲法改正に向けた大きな理由となっている。「戦勝国として都合の良いように作ったのではないか」と。
このGHQによる〈憲法制定プロジェクト〉は、歴史上確かに存在した。コードネームは『真珠の首飾り』。密室の中わずか9日間、25人のメンバーで作成された。果たして、それは本当に押しつけられたものだったのか。歴史の真相は、時代の中に見え隠れしている。
密室の9日間
憲法が公布される9カ月前、1946年2月4日午前10時。『第一生命ビル』(現『第一生命日比谷ファースト』)に本部を設置したGHQの会議室には、招集をかけられた25名が集まっていた。彼らは誰も趣旨を知らされていない。告げられた内容に耳を疑った。
「これからの一週間、日本国の憲法草案をつくることになる」
その中にいた最年少の女性も、あまりの唐突さに意味が理解できなかった。彼女はいつも通り部屋の南側にある自分の机に座って、これから通常の仕事に取り掛かろうとしていたところだったのだ。
「私たちが憲法を作ることになるとは、誰も考えていませんでした。何人かは法律の専門家でしたが、私も含めて大体はそうじゃない人たちですから。大学の先生、官僚、ビジネスマン…」
彼女の名前は、ベアテ・シロタ・ゴードン。当時22歳。日本に暮らす両親と再会するため、通訳としてGHQに関わっていた。そんな彼女が、日本女性が活躍する土台を作り、後に〈憲法24条の母〉と称される存在になるとは、この時本人を含め誰一人想像していなかった。ちなみに憲法24条は、『男女平等(婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する)』である。しかし今思えば、彼女以外の適任者はいない。
プロジェクトのリーダーは、実務上の統括者ケーディス大佐。25名はそれぞれ「立法」「司法」「行政」など8つの担当に分けられ、ほか2名と共に彼女が任命されたのは「人権」の分野だった。まず考えたのはリサーチすること。彼女はジープを借りて、焼け野原の東京にある図書館や大学を駆け回った。探したのは、世界各国の憲法。
「これは他のGHQ職員にも極秘事項でしたから、一気に何冊も借りると噂になって目立つと思って、いろいろな所から借りたんです」
徹底的に空襲を受けた東京にそれらの資料が残っていること自体が奇跡に近い。結果的に、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ソビエト、スカンディナビア諸国などの憲法をかき集める。それらは他の担当者にとっても重要な資料となった。法律の専門家は3人しかいなかったのだ。
「女性が幸せにならなければ日本は平和にならない」。そう確信していた彼女は、〈女性の権利〉に関する資料を読みふけり、作業に没頭した。〈男女平等〉は今では当然の考え方だが、当時はアメリカ憲法でも保障されていない。にも関わらず、日本女性にそこまでの使命感を持ったのは、決して文献からの知識ではない。彼女が幼い頃に見た「原風景」がそうさせるのだ。1929年から39年までの10年間、彼女はこの日本に暮らしていた。
1923年、彼女はオーストリアのウィーンに生まれた。父親はロシア系ユダヤ人で、著名なピアニストとして世界各地で演奏の日々。日本に来ることになったのも、そんな演奏会のひとつだった。招聘したのは『赤とんぼ』で有名な作曲家・山田耕筰。滞在期間は半年の予定だった。しかし来日後、ドイツでユダヤ人排斥を掲げるナチスが台頭し、帰国を見送ることになる。
それからアメリカへと留学する5歳から15歳までの多感な時期を、外では羽子板で遊び、お琴や日本舞踊を習うなど存分に日本文化に接して過ごした。家の中では、ピアノの生徒として訪れる人たちと接し、お手伝いの美代からは毎日いろいろな話を聞いて育った。
「夫が不倫しても妻からは離婚を言い出せないとか、東北地方の貧しい農家が生活苦から娘を売りに出したとか、いろいろ聞きました。でも、男性が道を歩いている時に、いつでも奥さんが後ろからついてくるのを見て“変だなあ”とは思っていたのです。私のパパとママは全然違います。仲良く一緒に並んで歩きますから」
タイムリミットの9日目。彼女たちは41条にも及ぶ人権草案を作ったが、女性に関する条文は、結局『男女平等』の条項以外は認められなかった。
「ケーディスが“具体的な内容のものは民法に入れるべきだ”と言って削除してしまいました。一つの条項が削除されるごとに、不幸な日本女性が増えていく気持ちで、気づいたら大佐の胸で泣いていました」
こうしていくつもの条文が削られた末、『GHQ草案』は完成した。
ファイナル・ドラフト
密室の9日間。日本政府はその間、何も知るはずもない。しかし予兆はあった。彼女たちに招集がかかる3日前、1946年2月1日の東京は珍しく雪が降る静かな一日だった。一方、政府官邸は朝から騒然としていた。GHQの指令により再提出を求められていた日本側の「憲法草案」が、毎日新聞によってスクープされてしまったのだ。見出しには〈君主主義を確立〉と大々的に報じられ、「天皇の統治権については、現行憲法と全然同じ建前をとっている」と社説で批評された。
「そもそも『ポツダム宣言』には“民主的な憲法をその国が書かなければならない”と書いてあります。だからマッカーサーは“日本の政府が書くように”と命令していました。でも、政府案はあまりにも民主的なものとはほど遠く、以前の明治憲法と変わりませんでした」
彼女が言うように『ポツダム宣言』により無条件降伏をした日本は、軍国主義から民主主義への転換を求められていた。あわせて、それに見合う憲法改正も時の政府に求められた重要課題。天皇主権にこだわる日本政府案にGHQは何度も再提出を求め、改善案を待っていたそんな矢先にスクープが発覚した。直後、マッカーサーは方針を切り替えて、極秘プロジェクト『真珠の首飾り』を始動させることになる。
こうして、日本政府は結果的にGHQ草案を「押しつけ」られ、それを元に作り直しを求められていく。
1946年3月4日午前10時。司令本部6Fの会議室には、GHQと日本政府の主要メンバーが向き合っていた。この日は、『GHQ草案』を元に〈日本語〉に翻訳して、作り直したものを提出する期限になっていたのだ。
「作業は明日までには終わらせたい。時間がないからすぐに始めよう」
ケーディスの促しにより、翻訳の共同作業が始まる。しかし「翻訳作業」と一口に言っても、決して簡単なものではない。〈翻訳〉とは違う文化をすり合わせる作業であり、どんなに忠実に訳してもそれぞれの思惑が入り込む。「どの漢字を使うのか」「どんな言い回しにするのか」、さじ加減ひとつでニュアンスは異なっていく。翻訳官は日本側2名、GHQ側2名。この中の一人にベアテもいた。
第1条の〈天皇の地位〉に関する条項から、早速互いの主張はかみ合わない。「『同意』という言葉では天皇への敬意が伝わらない。英語では相手を示す言葉は『you』ひとつだが、日本語には『you』に相当する言葉はたくさんある」と日本側が主張すれば、「相手によって表現が変わるのは民主主義に反する」とGHQ側が反論する。
〈天皇=シンボル〉という基本の表現からして、当時の日本人には馴染まない。「シンボルとは何か?」と日本の翻訳官同士が互いに考えあぐね、最終的には部屋に置いてあった英和辞典を引いて『象徴』と決めたのである。
すべての条文においてこんな四苦八苦の翻訳作業が続いていた中、席を外していたケーディスが急ぎ足で戻ってくると、驚くべき提案をした。
「今夜中に日本国憲法の『ファイナル・ドラフト(確定草案)』を完成することになった」
ファイナル・ドラフトとは、この作業が草案の最終稿になることを意味している。時計の針は午後6時。まったく予想外の展開だったが、仕上げるほかない。議論の折り合いをつけながら深夜2時が過ぎる頃、〈女性の権利〉の個所にさしかかったところで日本側が猛反発した。
「日本には、女性と男性が同じ権利を持つ土壌はない」
もちろん、周囲の人間は彼女が草案したとは知らない。意外にも口を挟んだのはケーディスだった。
「この条項は、日本育ちの日本の事情を良く知るベアテさんが作りました。悪いことが書いてあるはずがありません。採用しませんか?」
彼女を単なる若い通訳者としてしか見ていなかった周囲は、一斉に驚いた。当の本人も驚いた。女性の権利をことごとく削余したケーディスが後押ししたからだ。
「私が通訳する際に、時々日本側に味方するので、彼らが私に好意を持っていることを見抜いての彼の機転だったのではないかと思います」
いずれにしても、これが日本女性の未来を決める瞬間となった。作業は3月5日夕方まで続き、全ての翻訳作業は終了。翌3月6日の朝、政府は『憲法改正草案要綱』として発表する。国民が初めて目にする公式な「憲法改正案」だった。
敗戦国日本の分岐点
同じ1946年3月6日の夕方。アメリカ本土へと向かう軍用機が、厚木基地から飛び立った。機内には、日本政府のサインの入った憲法草案。向かった先は、ワシントンに本部を構える『極東委員会』だ。実はこの組織の存在が、GHQにかくも憲法制定を急がせた大きな要因となっている。
そもそもGHQは連合国の総司令部だったが、実際にはアメリカ単独で運営されていた。これに不満を抱いたソビエトが、日本の占領政策の指揮をとるために希望したのが『極東委員会』である。運営メンバーは米ソを始め、連合国11カ国の代表。これらの中には、日本に対して厳しい意見を持っている国もあった。特に、太平洋戦争で4万人の死者を出していたオーストラリアは「天皇も戦犯として裁判にかけるべきだ」と厳しく主張していた。
しかし、マッカーサーには「天皇を戦犯にしたくない」理由があった。終戦後、日本の激しい抵抗を予想して、大量の軍隊を引き連れ上陸した時のこと。予想に反して、抵抗する動きはほとんど起こらなかった。後日、それが天皇の命令によるものだったと知って以来、占領統治をスムーズに行うためには天皇の存在が必要だと認識する。「天皇を訴追すれば、日本は混乱に陥り、占領軍を大幅に増員しなければならなくなる。最低でも100万の軍隊が必要になるであろう」。彼はこんな極秘書簡をワシントン宛に送っている。委員会が本格始動する前に、天皇の位置づけを明確にした草案を作成することが急務だったのである。
極東委員会の設立予定が「1946年2月26日」に決定される中、毎日新聞によりスクープされたのが2月1日。追い詰められたマッカーサーは、先の『密室の9日間』へと向かうことを決め、後は時間とのせめぎ合い。第1回会議は予定通り26日に開催され、翌3月7日に2回目の開催が決まった。そこで「憲法改正」が議題に上る可能性を察知したGHQは、日本との翻訳会議の途中で〈ファイナル・ドラフト〉を作成することにしたと言われている。
歴史に“もしも”は存在しないが、もしも極東委員会による占領政策が行われていたなら、最悪日本は分断されていたかもしれない。事実、分断計画も存在し、何よりこの数年後には、アメリカとソビエトによる『冷戦』が始まり、朝鮮半島は戦争の末、分断された。
切なる国民の思い
1946年3月6日の発表後、憲法草案の評判は上々だった。翌日の朝日新聞の見出しには〈世界の世論は歓迎〉と踊り、財界も「将来に対する一応の見通しがついた」と評価している。世界のメディアは「革命的な変更であり、ある程度までユートピア(理想郷)的で、恐らくは来るべき新議会でかなりの反対に遭遇するのではないか(ニューヨーク・タイムス特約)」と、こぞって『戦争放棄』の条文に驚きを示した。
当時から「押しつけられた」と考えていた政府にとっても、この大衆の反応は驚くべきことだったに違いない。2月の世論調査(毎日新聞)では「天皇主権を望んでいた者」はわずか16%に過ぎず、5月に調査した『戦争放棄の条項』に関しては、約70%の人が「必要」としている。政府と国民との間に相当のギャップがあった。国民が望んでいたのは、あくまで「二度と戦争をしない平和な社会」であり、「今日を満足に暮らしていける豊かな生活」。敗戦でぼろぼろになり、明日食べる物にも困っていた国民にとって、それ以外ほかに何があったというのだろう。
1946年4月10日には戦後初の総選挙が行われ、39名もの女性議員が当選。新しい時代の息吹を感じるには十分だった。国民によって初めて選ばれた議員。その者たちで話し合う議会。今まで国民の知らぬところで議論されてきた〈憲法草案〉は、国会の審議にかけられていくことで、加筆・修正されていく。
例えば『義務教育』の条文。当初GHQ案は「6年間」を無償の対象にしていたが、最終的には現在の小・中学校に相当する「9年間」が義務養育とされた。延長を強く求めたのは、現場の教師たち。明日を担う子どもたちのためにと、全国各地から多くの「陳情書」が届いたという。
新たに作られた条文もある。『生存権』の条文だ。これを提案したのは4月に議員となった元経済学者の「森戸辰男」。戦前、単身留学したドイツで見た風景が、この条文成立に固執させた。当時のドイツは、第一次大戦後から間もない頃で、国全体が極度の貧困状態。敗戦国の現実を目の当たりにした森戸は、戦後日本の風景にも同じものを見た。餓死者が続出し、住む場所もない。国内で一番切実だった問題は、憲法改正よりも〈食糧問題〉だった。
「生活安定を得られない者がたくさんいる、というのが今日の社会の状態。その状態を、何とか国民の権利を基礎にして良くしていくというところに、生活権の必要性があると思うのです」
森戸の確固たる信念に、周囲は感銘を受け採択した。こうして憲法草案は、その姿を少しずつ変えながら、国民の思いへと近づいていったのである。
もうひとつの、物語
戦後も半世紀が過ぎようとしていた1993年。日本のテレビ収録のため、ベアテとケーディスが来日した。彼女が憲法草案に関与していたことを話すのはこの時が初めてとなる。22歳の若い女性が書いたということを口実に憲法が価値を失うことを心配して、ずっと口を閉ざしていたのだ。
しかし、彼女のように法律家でもないメンバー構成であったGHQが「なぜたった9日間で憲法草案を完成させることができたのか?」。この最も素朴な疑問の答えは、ケーディスのインタビューの中にある。
「実際“これ”がなければ、あんなに短い期間で草案を書き上げることは不可能でしたよ。ここに書かれているいくつかの条項は、そのまま今の憲法の条文になっているものもあれば、いろいろ書き換えられて生き残ったものもたくさんあります」(『日本国憲法を生んだ密室の九日間』ドキュメンタリー工房)
“これ”とは『憲法研究会草案』と呼ばれたもの。憲法誕生には、もうひとつの物語があったのだ。
終戦直後の1945年11月5日。港区内幸町のビルの会議室に7人の有志が集まっていた。この日は、彼らにとって記念すべき『憲法研究会』の1回目の会合だった。主宰者は、元東大教授で労働社会問題の研究者。他には、「言論の自由を確保しよう」と戦後いち早く新雑誌を立ち上げ、創刊号13万部をわずか2時間で完売させた編集者など、肩書も年齢も実に多様な民間人が集まっていた。
この個性的なメンバーの手綱を握ったのが、唯一の憲法学者で最年少の鈴木安蔵、41歳(当時)。彼もまた、戦後すぐに憲法改正を訴えた異彩な学者で、戦前の学生時代には言論弾圧により3年近くの獄中生活を経験している。
意見が対立することもあったが、共通項は「人権に対する自由な精神」。各自いろいろな形で弾圧されてきたからこそ、「自分たちがこうして欲しい」と憲法へ託す思いは変わらない。幾度もの議論の末、鈴木を中心に少しずつ憲法のカタチを成していく。
全58条。彼らの理想とする草案は、〈言論の自由〉〈国民主権〉など、明治憲法とはまったく異なる民主的な内容で完成した。ところで、草案にはあの『生存権』も入っていた。議会で熱弁した「森戸辰男」もまた、この有志の一人だったのである。
1945年12月28日、草案は毎日新聞で発表された。民間で作られた初の本格的なものとして、日本政府へ衝撃を与えたが、それ以上にこの発表を真剣に受け取ったのはGHQだった。即座に翻訳に回し、内容を詳細に分析。後に『真珠の首飾り』のメンバーとなるマイロ・ラウエル中佐は「民主的で受け入れられる」とその内容に高い評価を与えた。後年、アメリカの研究者にインタビューされた時にも、彼は次のように語っている。
「私はこの民間草案を使って若干修正を加えれば、マッカーサー将軍が満足し得る憲法ができると考えました。それで私たちの仲間も安心しました。これで憲法ができると」
この日を境に、日本のゆく末を決める憲法制定の流れは、大きく舵を切った。時は、『密室の9日間』が始まる、38日前。
問われた“問い”の答え
1946年11月3日午前11時、暖かい薄日差す秋晴れ。『日本国憲法』が公布された時、ベアテを含めたGHQの25名は、国会傍聴席の片隅に座ってその様子を眺めていた。あれから60年、いったい何を思うのか。
「ある国の憲法にだけ存在する条文や、似ているけど違うニュアンスのもの。それらを全部私たちは集めたんです。いろんな国から一番良い権利を。ある日本の専門家は“GHQが全世界の知恵を調べて、それを日本の憲法に入れたみたいだ”と言いました。そこには、全世界が一緒に書いたみたいに歴史の叡智が入っている。今度は、全世界の憲法に『9条』を入れるべきだと私は思っています」
日本で〈憲法24条の母〉と呼ばれる彼女の暮らすアメリカでは、期限付きで採択された『男女平等修正法』が、徐々に高まった反対の声により取り消されて以来、まだ明文化されていない。9条も24条も、日本にはすでに“ある”という重要性を、彼女は誰よりも感じている。
GHQが憲法作成できた背景には『憲法研究会』の草案が“あった”。その憲法研究会には、鈴木安蔵によって持ち込まれた〈一冊の文献〉の存在がある。
戦前、鈴木は明治憲法が生まれる歴史を研究している時に、一冊の書物に出合った。土佐の藩士・植木枝盛の『憲法草案』。自由民権運動の指導者でもあった彼の草案には、明治初期に作られているにもかかわらず、すでに〈人権〉に関する条文が30ほど列記されている。
開国してからわずか14年。新時代の藩士たちは、近代化する日本で「新しい国のありかた」を必死に考えていた。開国は、和服を洋服に変えただけでなく、西洋思想や哲学も受け入れた。彼らはそれらの書物をむさぼるように研究した。正確な辞書はなく、闇夜を照らす電灯もない。「自由で平等な社会」を作るその一心で解読していったのだ。
西洋の書物とは、『アメリカ独立宣言』や『フランス人権宣言』。辿り着く先は、変わらない。
もしも〈憲法〉というものが、その国に暮らす人々の幸せを問うものならば、それを作ったのが、いつであれ、誰であれ、どこの国のものであれ、問われている〈問い〉は変わらない。国も時代も超えて、いつか誰かの願いが“あった”からこそ、次の時代の土台が築かれていく。
全世界の国民が、ひとしく、恐怖と欠乏から免かれ、
日本国憲法 1946年11月3日(公布) 憲法前文(抜粋)
平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
参考文献・資料
『新憲法の誕生』(中公文庫)古関彰一
『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(創元社)鈴木昭典
『1945年のクリスマス-日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝-』(柏書房)ベアテ・シロタ・ゴードン著 平岡磨紀子構成・文
『ベアテと語る「女性の幸福」と憲法』(晶文社)ベアテ・シロタ・ゴードン 村山アツ子 高見澤たか子/『白洲次郎 占領を背負った男』(講談社)北康利
『映像・日本国憲法を生んだ密室の9日間』(キュメンタリー工房)
『映像・NHKスペシャル 日本国憲法誕生』
『映像・ETV特集焼け跡から生まれた憲法草案』