『人間と市民の権利の宣言』(人権宣言)に込められた夢と願い

『人間と市民の権利の宣言』(人権宣言)に込められた夢と願い

初出はGENERATION TIMES vol.10(2008年3月発行)に掲載。特集テーマ『時を拓く』の中で、近代の人間社会において重要な転換点とされる『フランス人権宣言』に興味を持ち、その願いがどのように現代まで続いてきたのかを綴った物語です。

1789年8月26日、フランス革命直後に『人間と市民の権利の宣言』(人権宣言)は生まれた。
今から200年以上前、そこにはまだ無秩序な制度と常識がいくつも残っていた。奴隷たちは、人として生きる権利などなく、手錠、足かせをつけられ、まったく身動きができないまま大西洋を渡った。病気になれば大海原に捨てられ、奴隷船の後方からは、捨てられた奴隷目当ての鮫がついてきたという。女性には投票権が与えられず、基本的な権利の行使を認められていなかった。それが「常識」だった時代。
この200年間で、「常識」は変化してきた。そのために立ち上がり、傷ついた人たちとともに。誰がというわけではなく、誰もがその当事者となりながら。

人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。

(フランス人権宣言 第1条 自由・権利の平等)

文:今村亮 写真:小原太平


暑い夏の日。どこまでいっても人ばかり。人と人の狭い隙間を見つける方が難しい。ほとんどは黒人だが、白人も数多くいた。今日知り合った黒人と白人が仲良く一緒に歩く姿もあった。そこには、幾度となく味わった煩わしい緊張感はなく、モラルは保たれ、誰もが互いを頼もしく思い、ユーモアに満ち、まるでフェスティバルのような幸福感が漂っていた。彼らは、アメリカのあらゆる州から、あらゆる交通手段でやってきた人々だ。仕事や学校を休み、安くはない交通費を払ってその場所に集まった。これほどまでにばらばらの世代、信仰、社会的階級、職業、または政党を超えて、ひとつの理念を共有した場があっただろうか。みんなが、この革命的な現場の参加者になりたかったし、目撃者となりたかった。何よりもこの出来事においては、誰もが当事者であり、誰一人として傍観者とはなりえなかった。

人だかりの向こうにある壇の周りをメディアの記者やカメラマンが囲っていた。そこにいるのは、様々な団体や宗教のリーダー、政治家たち。その隙間を縫うように一人の男が現れた。小柄だけれど、しっかりとした体つきをした彼は、原稿用紙を片手に持っていた。それをテーブルに置き、マイクの前に立つと、軽く歓声に応えてスッと一息、深呼吸をした――。

その176年前のこと

1787年、イギリスの27歳の青年トマス・クラークソンによって「博愛主義にのっとった史上初の大々的な市民運動」がはじまろうとしていた。

彼はケンブリッジの大学院に通っていた24歳の頃、あるラテン語の論文コンテストに参加し、「最優秀賞」を受賞。その時のテーマが、『人の意志に反して奴隷化するのは正しいか?』だった。当時、イギリス、フランスをはじめ、欧米諸国は世界各地に植民地を持ち、奴隷貿易は経済の一翼を担っていた。奴隷制は常識であり、白人からすれば、「奴隷を所有する権利」を有していた。そんな時代に、白人であるクラークソンが、たまたま大学院でペッカード博士の勧めを受け、反奴隷制をテーマに選んだ。それまでは奴隷制に興味を示したことはなく、クラークソンは、2カ月間、様々な文献を読んで何とかラテン語論文を書き上げた。彼にとっては、ただの論文コンテストに過ぎなかったが、奴隷貿易を研究するうちに、自分が悪夢のような問題を扱っていることに気がついた。いつの間にか彼は寝付きが悪くなり、奴隷貿易は明らかに道徳的に乱れていると認識するようになった。コンテスト授賞式の開かれたケンブリッジからロンドンへの帰り道、クラークソンは自らの心に論破し難い矛盾を抱えたことを自覚した。
「もしこの論文の内容が真実なら、誰かが最後までこの痛ましい不幸を検分すべきだ」
彼が、この問題に対して向き合う覚悟をした瞬間だった。生涯かかるとは思っていなかったかもしれない。けれど、すでに日常風景の一部として存在する「常識」を覆すことがいかに大変かは容易に想像ができた。

イギリスは、アフリカの海岸に船団を送り、アフリカ人を強制的に奴隷化し、アメリカや西インドの植民地で働かせるために大西洋を横断した。そして、イギリス人貴族が大好きな、砂糖、たばこ、綿花などの換金作物をイギリスに持ち帰る。この「三角貿易」で得られる利益は莫大だった。

奴隷船に乗せられる黒人の死亡率は少なくとも20人に1人。赤痢による脱水症状が死亡原因のほとんどだった。1788年に改正された法律では、船で奴隷に与える環境をこう規定している。〈男は縦182センチに幅41センチ、女は152センチに幅41センチ、少年は152センチに幅36センチ、少女は137センチに幅30センチ〉。改正後の規定ですら、想像を絶する。シャワーもトイレもなく、何十日もただそこに詰め込まれ、完全に物資扱いで輸送される。リバプールやブリストルなど奴隷貿易の中心地となる港町では、奴隷の足枷や手錠、食べることを拒んだ時に顎を無理やりこじ開ける道具が、普通に市内の店で並べられていた。

宣伝プロデュースの最初

クラークソンは、白人たちの常識を覆すために、現在のNGO・NPO活動、PR(プロモーション戦略)などの発端となる「キャンペーン」活動を展開した。一つは議会への請願。27歳の時にロンドンでつくった奴隷貿易廃止委員会を各地でグループ化し、多数の署名を集めて議会へ提出した。請願を出すタイミングを揃えることで、議会での優先順位を上げさせ、一人でも多くの議員を味方につけるよう工夫した。1792年4月、クラークソンは奴隷貿易廃止のための行動を起こす前に、議会に請願が届くよう各地に提案した。結果、519件もの請願書が殺到し、マンチェスター、グラスゴー、エディンバラの請願には2万人を超える署名があったという。

二つ目は、ポスターやビラなどビジュアルによるキャンペーン。『図版』と呼ばれる劣悪な奴隷輸送環境を示した奴隷船の設計図は、多くの白人たちに、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた窮屈な船内を具体的にイメージさせ、日常生活が奴隷制と密接していることを意識させた。「私たちイギリス人は、アフリカで奴隷と交換される品物を生産しているかもしれない」「アメリカでプランテーションを所有しているかもしれない」「奴隷船の運航に投資しているかもしれない」「プランテーションで生産されたものをただ食べたり、飲んだり、喫煙しているかもしれない」と。

三つ目は、ボイコット運動。西インド産の砂糖やたばこなど、奴隷によって生産された商品を買わないことで、奴隷貿易への反対を示すことができるという考えを広めた。クラークソンは、『イギリス人への挨拶』(ウイリアム・フォックス著)というボイコット運動を示唆するパンフレットを読み、すぐにリプリント版を配布した。それによって約30万人が何らかのかたちで砂糖ボイコットに参加した。果物以外の甘いものを控えた家族もあれば、砂糖から蜂蜜や楓シロップに切り替えた家族もあった。そのおかげで、ロンドンのグローサー(食料雑貨商)の砂糖需要は1/3に減り、バーミンガムでは半減したという。

これらは、21世紀の現在においても頻繁に活用されている手法だ。クラークソンが最大の効果を得られるように考え出したキャンペーンは、今より広く伝えることが困難だった時代において、市民と議会に画期的な変化をもたらせた。国と市民、その両方に同時にアプローチしていくことで、「常識」の転換を図ったのだ。ただ、本当の意味で目的を達成するには、まだ四半世紀、闘い続けることになるのだが。

論文の真実を塗り替えろ

クラークソンには、奴隷制度を変えるために国に働きかけてくれる同世代の国会議員ウィリアム・ウィルバーフォースがいた。彼には、首相など国家要人との人脈と演説で人々を感動させる才能があった。ある会合で彼の演説を目の当たりにした作家ジェームズ・ボズウェルは、その演説術をこう称賛した。
「壇上で演説をはじめた小柄な男は、まるでエビのようだった。ところが、演説が進むにつれ男は大きくなり、エビはいつの間にか鯨に成長していた」

クラークソンは、人々の感情をふるわせることができるウィルバーフォースに学術的な情報や論拠を提供した。互いに得意な分野を活かし、彼らは信頼できるパートナーとして活動を共にする。二人が出会ったのは、1787年。クラークソン27歳、ウィルバーフォース28歳の頃だった。

彼らは奴隷貿易廃止委員会で数カ月かけて次の議会までの計画をたてた。そして、1789年5月にウィルバーフォースは、「奴隷貿易は道徳的に非難されるべきであり、自然な正義の問題である」と、クラークソンが集めた膨大な証拠を巧みに引用しながらイギリス議会初の奴隷制廃止演説を行った。奴隷たちの扱いを詳細に説明し、奴隷制廃止に関する提案を出した。翌年、審査委員会が、彼らが提出した証拠の審査許可を出すと、ウィルバーフォースは、1791年に奴隷貿易廃止法案を議会提出。しかし、圧倒的な反対票により否決された。その結果を受け、二人は世論を高めるための国民的運動の必要性を感じ、先述のキャンペーン活動をはじめた。

クラークソンは、黒人たちの証拠・証言を集めるために、半ば旅人となっていた。イギリス中の奴隷貿易が繁栄している港町へ行き、数えきれないほどの奴隷と関係者にインタビューを敢行した。ただ、さすがに革命直後のフランスに向かう時は「危険すぎる」と、周囲から止められた。
「運動の利益になることであり、反対などしない。私がどこへ出かけるかは問題ではない」

結局クラークソンは、「旅の一部」と言わんばかりにフランスへ出かけた。一方ウィルバーフォースは、議会が開かれる度に奴隷貿易廃止法案を提出。幾度となく熱弁を振るい続けた。ところが、1793年にフランスとの間で戦争が勃発。奴隷制廃止の議論を大幅に遅れさせた。国民の関心が安全保障に傾いてしまったからだ。
二人が本当の意味で希望を持てるようになったのは、19世紀になってからだった。1804年、奴隷制廃止法案が初めて庶民院といわれる議会を通過した。1807年、20年以上の歳月をかけて集めてきた証拠をまとめた『奴隷貿易廃止に関する手紙』を発表。この本が、活動の最終段階の基盤となり、法案は貴族院でも予想以上の賛成票を集めて通過。奴隷貿易廃止法が遂に成立した。27歳の若さで活動をはじめたクラークソンは47歳になっていた。

ナポレオン戦争が終結した1814年から開かれたウィーン会議では、イギリス、フランス、スペイン、オーストリア、プロイセン、ロシア、ポルトガル各政府は奴隷貿易廃止を決定。その後、1833年、ついにイギリス領全域での奴隷制廃止法が施行された。ウィルバーフォースは、奴隷制廃止法成立1カ月前の7月29日に奴隷制廃止に捧げた一生を終えた。
1846年にスウェーデン領、48年にフランス領、63年にオランダ領で奴隷貿易制度が廃止された。アメリカでは、65年の南北戦争終結をもってエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言をしてその廃止を迎えた。

闘わずして孤独は消えない

それから約100年後、1956年1月のある夜。27歳になったばかりの青年が、眠ることができずにベッドから起き上がり、家の中を歩き始めた。身体は疲れきっているし、眠りたいのにどうしても眠れない。彼は、ベッドに入る前に受けた脅迫電話に動揺していた。自分のことよりも、愛する妻と生まれてきたばかりの娘のことが気になった。キッチンでコーヒーを温め、気持ちを落ち着かせようとするが、彼はもう諦めようともしていた。目の前のコーヒーに手をつけないまま煩悶し、表舞台からの身の引き方を考えた。

約1カ月前の1955年12月1日に事件は起きた。ある婦人ローザ・パークスが、バスに乗っていた。目的地までの途中、一人の男性が乗車した際、彼女は運転手から後部座席に移動するよう指示される。しかし、後部座席はすでに満席で、「移動」は立つことを意味していた。彼女は、その指示を拒否して座り続けた。男性は何ひとつ不自由なく、しかも彼女より若かったにもかかわらず、なぜ運転手から移動するよう促されたのか? それは彼女が黒人だったから。アメリカのアラバマ州モンゴメリーには、『人種隔離条例』があり、ローザ・パークスは条例違反で逮捕された。

この日をきっかけに、バス・ボイコット運動がはじまる。普段、多くの黒人労働者がバスを利用していたが、ローザ・パークス初公判日の12月5日は、朝からバスは空っぽになった。労働者だけでなく、街中の黒人がバス・ボイコット運動に参加し、出かけるときはいつも歩くようになった。

眠れずに悩む27歳の青年は、バス・ボイコット運動のリーダーを任されていた。『奴隷解放宣言』から100年も経つというのに、それでも消えることのない差別的常識に異を唱える彼らは、それを快く思わない人々によって脅かされた。脅迫電話は一日数十回にもなり、不当なスピード違反で投獄もされた。青年の信念は固く、それらの圧力に屈する素振りは見せなかった。実際、運動への情熱と仲間のサポートは、彼を気丈にしてくれた。しかしその日、何十回目かの脅迫電話の後、彼は不安に襲われた。そして、眠ることができなくなり、キッチンのテーブルで祈りながら眩いた。
「私は弱いです。倒れそうです。勇気を失いそうです。そして恐れています。私は人々にこんな姿を見せたくありません。私はもう力の限界に来ています。もう何も残っていません。もう一人で立ち向かうことはできません」

朝もやの光の中でバスを待つ

青年の名は、マーティン・ルーサー・キング2世。1955年12月当時、彼はモンゴメリー・デクスター街のバプテスト教会で牧師として過ごしはじめて半年程度だったが、すでに街の黒人たちの信頼を得ていたため、ローザ・パークス事件直後、モンゴメリー改良協会(MIA)の会長を任される。それは、運動のリーダーになることでもあった。

1956年2月21日、キングとMIA指導者らをはじめ100人以上が、『ボイコット禁止法違反』で起訴された。逮捕され、キングが刑務所に連れられると、そこはまるで「休日のような雰囲気」だったという。前年の12月からはじまったボイコット運動は、白人社会への訴えになっていたが、同時に黒人たちにこれまではなかった確信をもたらした。「自分たちは正しい」という。刑務所の雰囲気は、そのような黒人たちの変化の表れでもあった。誰も恐怖心を抱いているようには見えず、逮捕を免れようともしていない。それどころか多くの黒人が刑務所に訪れて、自分の名前が逮捕リストに記載されているかどうかを確認した。そして、リストにないと「俺だってボイコット運動に参加していたぞ」とでも言いたげに、肩を落として帰っていくという光景が見られた。
「少し前まで黒人たちは、法律の前で恐怖心におののいていたのに」
キングは刑務所にありながら、しっかりとした連帯感に支えられていた。1月に彼自身が襲われた恐怖心も跡形もなく消え去っていた。

3月22日、キングは非合法ボイコット指導のかどで有罪となったうえ、事件は上訴された。数カ月にわたるバス・ボイコット運動は、少なからず黒人たちにも犠牲を強いていた。老人、妊婦、子どももバスに乗らずに歩いていたからだ。

夏が過ぎ、涼しい季節が訪れた頃、キングは召喚状を受け取る。市が連邦裁判所に「バス・ボイコットによって被る市の損害をMIAが償うべき」との請願書を出していたのだ。意見聴取は11月13日。キングを含め多くの黒人たちが、その前日から悲観的になっていた。バス・ボイコット運動は差し止められ、約1年にも及んだ彼らの犠牲は結実しないまま消えていく寸前だった。被告人代表として、キングは入廷した。
事務的に意見聴取が進められ、短い休憩時間に入った12時頃、法廷内でちょっとしたざわめきが起こった。市長と行政委員とその弁護士が別の部屋に呼び出された。そして、連合通信社の記者が、一枚の紙をキングに手渡した。

「合衆国最高裁は本日、『アラバマ州及び、地方条例が規定するバスにおける人種隔離は、違憲である』と裁定した特別判事連邦地方裁の判決を確認した。これは端的に、『動機は承認され、判決は確定された』と述べている」

最高裁は、人種隔離は憲法違反との裁定を下した。紙に綴られた最高裁の決定を読み終えたキングは、跳び上がるほど嬉しかった。自分の心臓が鼓動するのを聞きながら、彼は弁護士と法廷の後方で見守ってくれていた妻に告げた。それはすぐに法廷内に伝わり、街中に広がった。そして、ふたつの協会に8千人の人々が集まり、喜びに包まれた。

12月21日朝5時55分。キングの自宅近くのバス停に1台のバスがやってきた。彼は、バス・ボイコット運動を解除してから、最初の乗客としてバスに乗ると決めていた。約1カ月後になったのは最高裁の命令状が届くのを待ったからだ。ドアが開き、料金ボックスにお金を入れると、運転手が「キング牧師ですね」と声をかけてきた。「そうです」とキングが答えると、運転手は続けた。
「今朝乗っていただけてうれしいです」バス・ボイコット運動は、「結実」した。

いつもの風景の夢を見た

――壇上に立ったキングは、はっきりと遠くまで通る声で語りはじめた。
「今から100年前、その肖像の下に我々が今日立っている一人の偉大なるアメリカ人が、奴隷解放宣言に署名しました。この重要な布告は心身を萎えさせる炎の中で焼かれてきた何百万という黒人奴隷にとっては、偉大なる希望の灯火でした。それは長い捕囚の夜に終わりを告げる喜ばしい夜明けを意味しました。ところが100年経った今、黒人は依然として自由ではありません」

観客は高揚感を抑えながら、静かに聞き入っていた。彼は時折、原稿に目を落としながらも、聴衆一人ひとりの目に訴えかけるようにしっかりとした目線を彼らに向けて話し続けた。言葉の狭間に歓声が沸く。彼を崇める歓声ではない。「同意」の歓声だ。事態、目的、意志を「共有」しているという歓声。
「私は、夢を持っている!」

その言葉を口にした時、キングはすでに原稿に目を落とすことはなかった。そして、25万人以上が集まった最後尾の一人にまで届くような眼差しを向けた。集まった人々も彼と共にボルテージが上がっていく。

「私は、夢を持っている。それはいつの日かジョージアの赤土の上で、昔の奴隷の子孫と昔の奴隷主の子孫とが兄弟愛のテーブルに一緒に座ることができるようになる夢を。私は、夢を持っている。それはいつの日かミシシッピ州でさえも、つまり不正義の熱気で暑苦しくなっている、そして抑圧の熱気で汗だくになっているあの州でさえも、自由と正義のオアシスに変わるだろうという夢を。私は、夢を持っている! それは私の4人の小さな子どもたちが皮膚の色によってではなく、人格の中身によって評価される国に住むことができるようになる夢を。私は、夢を持っている!」

1963年8月28日。暑い夏の日だった。


クラークソン、ウィルバーフォース、そしてキング。彼らの行動は紆余曲折がありながら、いつしか社会現象となって常識を覆した。だが、彼らもはじめは、たった一人の「危険分子」だった。一般的に見ても、彼らの主張は常軌を逸していた。目的を掲げてから達成までの月日と数々の困難、キングの最期(1968年4月4日に暗殺された)がそれを物語っている。

彼らの人生は、あまりにドラマチックに映る。実際にそうかもしれない。クラークソンは、奴隷を持つことが「正当な権利」として認められていた、つまり奴隷とは所有主のある所有物だった時代に、それは「不正義だ」と言い出した。当時、「なんてとんちんかんなことを言う若造が現れたんだ」と思った人は少なくないはずだ。

バスも、カフェも、トイレも、あらゆるものが『有色人種』と『白人』で分別されていた時代に、「一緒にテーブルを楽しく囲みたい」と言い放ったキングもまた、そう思われただろう。事実、拒絶もされた。しかし、彼らが掲げた「非常識な夢」は、今や「いつもの風景」となっている。彼らの掲げた「夢」は、その人生ほどドラマチックなものではなかった。それは、あまりに小さく、当然の望みでしかなかった。

肌の色にかかわらず、同じ学校に通い、電車に乗り、友人となり、食事のテーブルを囲む。同じ職場で働き、恋もすれば、ケンカや仲直りを繰り返す――。
こんな「いつもの風景」がたった40年前まで、一人の男の「夢」でしかなかった。遥か200年も前から、その「祈り」ははじまっていたのに。

人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。社会的差別は、共同の利益に基づくものでなければ、設けられない。

(フランス人権宣言 第1条 自由・権利の平等)

参考文献

『トマス・クラークソンと反奴隷制運動』ザバヌー・ギッフォード著 徳島達朗訳
『マーティン・ルーサー・キング自伝』(日本基督教団出版局)クレイボーン・カーソン編 梶原寿訳
『貧困の終焉』(早川書房)ジェフリー・サックス著 鈴木主税・野中邦子訳