〜ブータン初の国政選挙〜
えらびゆく
沖縄で発行されていた雑誌『momoto』の連載企画「67億人の交差点」で執筆したもの。テーマは、「幸せの国ブータンにおける初の民主主義選挙」です。国王自らが王政を廃止し、世界でも例のない“上からの民主化”の中、私たち国民にとって「選ぶという行為の難しさ」を考えさせられます。
ヒマラヤ山脈の麓に、「理想郷」と呼ばれるアジアの国がある。人口わずか70万人。面積は九州とほぼ同じ大きさ。国の豊かさを、経済発展ではなく国民の「幸せ」を指標にする『GNH(国民総幸福量)』を掲げた王国・ブータン。その100年間続いた王制から、立憲君主制の民主主義国家へと統治形態を変えた。それは、国民のほとんどが反対し、国王自らが決断したという世界でも例のない「上からの民主化」だった。守るべき伝統と、前進するための新たな変化。“選ぶ”という行為は、僕らが思うほど簡単なものではない。
文・写真:伊藤剛
2008年3月24日、月曜日。
8割が地方出身者という首都の街からは、人影が消えていた。有権者が投票するために帰郷していたからだ。投票は出生地に限定され、土日の間に移動できるように政党の選挙活動も投票日の二日前までと決められていた。ガソリンスタンドからは石油がなくなり、事務局は長距離バスの提供を行った。乗り物が嫌で600キロの道を歩いて帰郷した女性もいる。喧嘩にならないように投票日には酒類の販売も禁止された。国民にとって初の民主化選挙。
候補者にとっても同様だった。前年まで政党を作ることが禁止されていたため、わずか一年足らずでその日を迎えた。選挙の戦い方がわからず、二つの政党は互いの批判よりも賞賛し合った。「あなた方は責任ある有権者です。別の党の集会にも行ってください。そして、自ら考えて誰に投票するかを決めるのが民主主義です」。当選した側の党首の言葉だ。
投票率約80%。戸惑いながらも、国中が沸いた。けれど、この選挙に参加できなかった者もいる。ネパールとの国境付近にいる大量のブータン難民。その数、約10万人以上。伝統を守るための仏教徒を優遇する『ブータン化政策』によって、仏教徒ではない少数派が難民となった。理想郷が抱える民族問題。そんな状況下、民主化へと変貌を遂げた背景には、この地域特有の歴史がある。
中央アジアに位置するブータンは、古くから地理的に選択を迫られてきた国だった。北は中国、南はインドと、世界一・二位の人口を誇る大国に挟まれ、常に国家同士の思惑が交錯する場所。ブータンが独立国として生き残るために選択したのが『世襲王制』だった。
しかし近年になっても、隣国のチベットは中国に侵攻され、事実上その一部となっている。そして、もう一つの隣国『シッキム王国』の崩壊は、さらに大きな影響を与えた。35年前、ネパール系の労働者移民が過半数を超えたこの王国では、彼らの要望により選挙で王制が廃止され、インドの州の一つとなることを選択した。戦争でも侵略でもなく、アジアの国境線が一つ消えたのだ。
激変する地域の中で、わずか70万人のブータンは「自国であり続けるために何をすべきか」を必然的に問われている。大半が農家であるブータン国民は、政治的なことには一切関与せず、国王にすべて任せてきた。だからこそ、国王から問いかけた。
「いつの日か悪い国王が現れたらどうするのか。国の未来は国民一人一人が考えて、選んでいかなくてはならない」。100年かけてこの国が選んだ答えは、世界でも希な「上からの民主化」だった。
「民主化は国王からの贈り物だが、今までも幸せだった。王制を続けてほしい」。突然の変化は国民を大いに戸惑わせた。最初は“選ぶ”という行為の意味さえわからなかったからだ。笑顔の良さで選べばよいのか、話の上手さで選べばよいのか。民主主義に慣れ親しんだ僕らが忘れている、選ぶことの難しさ。
そもそも選ぶ行為には、それを選択する者の“願望”や“不満”が必要となる。政党に要望が何もなければ、選択する基準も存在しない。その意味において、民主主義は“欲望”で動く資本主義と本質的に相性がいい。願望と欲望を掲げて前進する現代社会。そして、選ぶ行為は時に断絶を生む。
最後まで政党を選べず、家族を半々に分けて投票した小さな村のとある家族。その素朴な決断は、片方の政党が大差で勝利したこの選挙後、村や家族の間で以前とは違う微妙な関係を生んだ。選ぶという行為は、必ず“選ばれない側”を作り出す。多数決の本質は、半分以下を切り落とす形を変えた「戦争」だ。白か黒か、伝統か革新か。僕らの暮らす世界は常に決断を迫られる。けれどこの世界には、選べないこともまた意外と多い。
「二つの政党どちらも“国民のために頑張ります”と言っていました。だから、両方とも頑張って欲しいです」
選ぶことの潔さと、選べないことの豊かさ。あの家族のこの言葉には、そんな豊かさが溢れている。