Today is a very good day to die.

今日は死ぬのに
とてもよい日だ。

今日は死ぬのにとてもよい日だ。 〜Today is a very good day to die.〜

初出はGENERATION TIMES vol.7(2006年11月発行)に掲載。特集に「生と死」という壮大なテーマを選んだ際、昔読んだネイティブアメリカンの詩を思い出し、その詩がうまれる暮らしを一目見たくて、飛行機を何度も乗り継いで、アメリカのアリゾナ・ユタ・ニューメキシコの三つの州にまたがる『ナバホ・ネーション』に取材に行った貴重な記録です。

今日は死ぬのにとてもよい日だ。
あらゆる生あるものが私と共に仲よくしている。
あらゆる声が私の内で声をそろえて歌っている。
すべての美しいものがやってきて私の目のなかで憩っている。
すべての悪い考えは私から出ていってしまった。

今日は死ぬのにとてもよい日だ。
私の土地は平穏で私をとり巻いている。
私の畑にはもう最後の鋤を入れ終えた。
わが家は笑い声で満ちている。
子どもたちが帰ってきた。
うん、今日は死ぬのにとてもよい日だ。

From Many Winters © by Nancy Wood, published by Bantam Doubleday Dell 1992. 訳/丸元淑生『インディアンの生き方』(ワールドフォトプレス)


『今日は死ぬのにとてもよい日だ』。この詩は、アメリカの先住民族、ネイティブ・アメリカンと30年以上の交流を持つある女性詩人が、彼らの死生観を表現したものだ。
「人生で一番いい日に死ぬ」。現代社会において、「死」というネガティブなイメージと、この詩で描写されているポジティブな世界とのギャップに、彼らの独特な思想がうかがえる。
長らく「インディアン」という蔑称で迫害されてきたが、近年になって彼らの伝統的な暮らしや自然観に注目が集まるようになった。しかし、彼らが暮らすのは、世界最大の近代国家アメリカ合衆国。果たして、「今日」をどんなふうに生きているだろうか。

文:伊藤剛 写真:谷口巧



広大な赤土の砂漠。雲のない青空。大地と空の間には、高層ビルほどの巨大な岩が立ち並ぶ。人智を超えた自然の力で大地が隆起し、何万年という長い歳月をかけて浸食された。土で作られた家。羊や馬を囲う柵。見渡す範囲には他に何も見当たらない。遠くかすかに見える煙が、人が住んでいることを教えてくれる。遥か1万年以上前の先祖が、アジア大陸から海を越えて渡ってきた時に見ていたのと同じ風景が、今も目の前に存在している。

壮大な自然の中で暮らすネイティブ・アメリカンの根底には、すべてにおいて「つながり」という思想がある。足元にある大地も、空も、羊も、馬も、家族も、それぞれの関係性の中に、自分たちの存在や命というものを見出している。
人は胎児だった頃、へその緒を通じて母親とつながり、胎盤を通して酸素を受け取る。そのつながりを断ち切り、生まれてから後は、『呼吸』こそが、大地と私をつなぐへその緒となる。

彼らは、自然との関係なくしては生きていけない。だから彼らは朝起きると、まず生きていることへの奇跡を感謝して、一日を始める。


ここにも、そうした朝を迎えている一人の老女がいる。名前はスージー・ヤジー。生まれた年は1917年頃で、推定89歳(当時)。『ナバホ族』と呼ばれる、アメリカ最大の「居留地」を持つネイティブ・アメリカンだ。ルーツは日本人と非常に近いモンゴロイドで、氷河期にアジア大陸からアラスカに渡り、南下していったと言われている。髪の色や顔の形もさることながら、日本人とのルーツが近いと感じさせる不思議な共通点もある。日本語で方向を示す「あっち、こっち」。ナバホ語では「アッチャ、コッチャ」というらしい。極めて原始的な言葉が同じというのは、かつて同じ場所にいた可能性は確かに高い。現在は人口約28万、約6万2000平方キロの面積を持ち、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコの三つの州にまたがっている。

『ナバホ・ネーション』として独自の議会や政府を持ち、警察や学校、そのほか火力発電所も自ら運営し、国連に代表も送るなど、アメリカ国内に自治権を持って暮らしている。しかしナバホが自治権を持つまでの間には、犠牲にしてきたものもたくさんある。それはそのまま、ネイティブ・アメリカン全体の迫害の歴史と重なる。

観光名所となった、母なる大地

1864年、スージーの祖母のまた祖母、三世代前の頃、「ナバホの地には金鉱脈がある」と白人によって目を付けられた。この時期は「西部開拓時代」と言われ、ナバホ以外の場所にもアメリカ人がこぞって移住していた。

なぜ、大地を誰かが所有することができるというのだろう。
私はその上を歩き、羊も歩いている。
それは空を所有できないのと同じことだ


彼らにはもともと土地を所有するという概念がない。しかし、金鉱脈を始め、石油や石炭などの地下資源が発見されてからは、白人たちによって土地を奪われ、幾度となく移住させられてきた。移住先は作物も育たないような不毛な地。この時のナバホも、新たな移住先へと強制連行されていった。その距離480キロ。食物もほとんど持たされず、気候も寒く、道中では子供が奴隷として売られることもあった。それから数年後、土地から何も出ないことが分かるとようやく帰ることが許されたが、餓死や凍死、虐殺など、この時期の間に3000以上もの人がすでに亡くなっていた。幸いにもスージーの先祖は生き延び、この地へと戻ってくることができた。現在、「モニュメント・バレー」と呼ばれている場所だ。


広大な居留地の中でもきっての景勝地であるモニュメント・バレーは、観光名所の「グランドキャニオン」とはまた違った趣で、アメリカ国内でも人気の場所。ゆえに、訪れる観光客も多い。スージーが暮らす場所には、電気、水道は通っていない。限りなく伝統的な暮らしをしているが、ここで生活しているのは家族では彼女独りだ。息子、娘たちは、いわゆる中心街に移り住んでいる。

「ナバホ語を話す人が少なくなってきた。昔は、家族が一つの家で暮らしていたから、大事なことを伝えることができた。でもいまは、それを伝えることが難しい。このまま自分たちの文化を失っていくのかもしれない」


近代化が急激に進む中で、彼女もまた少しずつ伝統的な生活を失いつつある。昔は、山を越えて水源に水を汲みに行った。しかし、この土地で子供と一緒に住んでいないということは、水の確保もままならないということ。街に住むナバホの観光ガイドから、車で水や燃料を運んでもらっている。時に、それと一緒に観光客もやってくる。はた織り機の前に座る彼女の姿を、アメリカ国内やヨーロッパから訪れた白人の観光客がしきりに写真を撮っているのは、見せ物のようで切なさを感じなくもない。しかし、彼女に気にしている様子はない。むしろその顔には満足感さえうかがえる。

母から受け継いだ言葉

ナバホは、かつては「ホーガン」(※1)と呼ばれる伝統的な家で暮らしていた。仕切りのない家の中で、長く生きた者は家族全員に、歴史を語り、神話を詠い、生きていく知恵を授けていった。生きるために必要なことは、すべて「語る」ことで伝えてきた。文字がない文化では、言葉を話す人がいなくなるということは、先人の知恵を失うことと等しい。

スージーの生まれ育った環境は、まさに伝統的なナバホの暮らしだった。両親、祖父母はもちろん、親戚関係も近くに住み、スージーは小さい頃から知恵を持った大人たちと一緒に過ごしてきた。しかし、大好きだった母親は常に病気がちで、彼女が16歳になった時に亡くなってしまった。一番下の弟が生まれたばかり、居留地に再びアメリカ政府が介入してきていた時でもあった。家で飼育していた1000頭ほどの羊を剥奪され100頭へと減らされた。それでも長女であるスージーは、4人の弟と2人の妹を育てていかなければならなかった。


彼女が生きている間に母親から学んだこと。それは「人としてやらなければならないことを、あなた自身がやりなさい」という教えだった。母親が亡くなった時、彼女はその言葉の意味を「家族が生きるための方法を考えること」だと理解した。羊は糸になる。馬は交通手段。牛は肉と靴になった。羊の皮はベッドにもなった。造った宝石や織り物を交換することで、動物を集めていった。一番下の弟が泣いたら、羊のレバーを乾かしてスポンジ状にし、それにやぎのミルクを沁みこませて与えた。祖父からの勧めで見合い結婚をすることになった時も、彼女は相手に「下の弟たちの面倒まで見てくれるなら」と言った。彼女は母親の教えを忠実に守り、毎日を生きてきた。

そんな暮らしの中で、彼女が夢中だったことがある。それは母親から受け継いだもう一つのこと。ナバホ女性の伝統文化、「ラグ(敷物)」を織ることだった。ホーガンの中で、天気が良ければ空の下で、はた織り機の前に座り、1段、2段と糸を通し織る母親の姿を小さい頃から見てきた。糸の染料はすべて植物から採取し、色とりどりの美しい絵柄に魅了された。以来、その姿と絵柄を受け継ぎ、80年もの間、毎日織り続けている。

「母は細かい絵柄をもう織れなくなっている。私たちはこの場所を離れ、街に出てしまった。でも、母から教えてもらった絵柄は今でも覚えています」


週に2回はスージーの世話をしに街から戻ってきているという娘のエフィー。彼女もまた、母親の姿から絵柄以外のものを受け継いでいた。

「今、ナバホが抱えている一番大きな問題は、若者に自殺者が出始めたこと。ナバホの歴史の中で、自ら命を絶った人はいなかった。原因は、ドラッグやアルコール依存。大事な文化を見失って、繋がりを喪失して、大切なことを伝えられなくなってきている。母は“どうやって生きていくのか”をずっと私たちに教えてきてくれた。母が今でもこの場所でナバホの大切なことを守り続けているのを見て、もう一度私もこの場所に戻ろうと考えています」

家族が離散し始めた原因の一つには、「学校」という制度が関係している。「立派なアメリカ市民に仕立て上げる」という大義名分のもと、アメリカ政府が「同化政策」を進めるために学校を作った。子供を通わすためには近くに引っ越さなければならなかった。ナバホ語を話すのを禁じられ、伝統的な儀式も厳しく規制された。現在では、学校の運営はナバホによって行われているが、学校に行くことで得られることと、ホーガンの中で語り継いできたこと。そのどちらを選んでいくか、今後の道はナバホ自身の手に委ねられている。

今日も、朝、日が昇る


朝、6時。東の空が明るんでくる。一日の始まりだ。すべてのものに感謝を告げて、羊や馬の柵を開け放つ。朝食はジャガイモと肉を炒め、ナバホのパンとコーヒーを一杯。スージーは身支度を整えてから、数十メートル先のホーガンへと向かう。古くなったはた織り機を丁寧に整え、今朝も変わらず糸を紡ぐ。

「私の宝物は、家族と生きとし生けるもの。私が羊、馬、牛の世話をし、彼らもまた私が生きていく世話をしてくれる。他の土地を見に行ったこともある。でもそこには彼らを育てる場所も、歩かせる場所もなかった。たとえどんな価値のある物でも私を幸せにすることはできない。私は、アリゾナという言葉の意味も、それを誰が管理しているのかもよく知らない。私にとってここは、ただ生まれた場所であり、愛する場所であるということだけ。ここにいること。ラグを織ること。それだけでいい。そして私はまだここに生きている」

大切な「モノ」はなんですか? そんな質問にスージーはそう答えた。


それは「モノ」の類ではなかったけれど、彼女の「生き方」そのものを表していた。彼女の過ごす「一日」は、きっと長い人生のどこを切ってもほとんど同じなのかもしれない。だからこそ彼女の「今日」には、人生のすべてが表れている。朝起きて、祈りを捧げ、羊を飼育し、ラグを織る…。

観光客はまた訪れるだろうか。どちらにしても、彼女はホーガンの中で大好きなラグを今日も織り続ける。「なぜ違うことをする必要があるんだい?」。そんな言葉の代わりに、スージーは最後にこう告げた。「いつでも戻ってきておいで。私はずっと変わらないから」。

あなたが生まれたとき、
あなたは泣いていて
周りは笑っていたでしょう。
だから、あなたが死ぬときは
周りが泣いていて
あなたが笑っているような
人生を歩みなさい。

『死ぬことが人生の終わりではないインディアンの生きかた』(扶桑社) 著・加藤諦三

参考文献

『イーグルに訊け』(飛鳥新社)
『死ぬことが人生の終わりではないインディアンの生きかた』(扶桑社)
『ナバホへの旅』(朝日文庫)
『インディアンの生き方』(ワールドフォトプレス)

  1. 円い屋根の八角形。外側を土で固め、中に仕切りはなく、床は大地のまま。入り口は太陽の昇る東側で、小屋の北側は女性に属し、南側は男性に属する